餃子だって麺料理!? (14) ラーメンの登場
ラーメンの登場 こうして、ようやく日本の食生活に入り込み始めたシナそばだが、もうひとつ普及が進まなかった。肉食禁止令に長らく慣らされてきたため、豚肉の匂いと脂臭さにはなじめなかったのである。そこで、シナそばの和風化が進められる。かつて、豚肉の入った「包(肉まん)」の中味を小豆餡に変え、まんじゅうにすることで広く受け入れられたように。...
View Article餃子だって麺料理!? (15) 国民食への道を歩きはじめたラーメン
国民食への道を歩きはじめたラーメン ラーメンが日本人の食べ物としてポピュラーになるには、二つの大きな転機が必要だった。一つは、前にも述べた関東大震災である。焼け跡に輩出した屋台のシナそば屋は、住居も飲食店も倒壊・焼失したなかで、被災者の食をカバーする役割を果たした。結果的に、シナそばは、多くの人に受け入れられる食べ物になった。...
View Article中国農薬餃子が宇都宮餃子に残した影響 (1)
中国農薬餃子が宇都宮餃子に残した影響 (1) 2008年に起きた中国製農薬入り餃子事件の容疑者がこのほど逮捕されたという。事件発覚から2年以上を経て、ようやく事件解明が進みだしたことになる。...
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中国農薬餃子が宇都宮餃子に残した影響 (2) 宇都宮と浜松は、家計調査の「ぎょうざ」の項目で、ここ2年間、購入額日本一を争っているライバルである。ともに、戦後に引き揚げ者たちによって、餃子の有名店が形成され、それぞれ独自の餃子文化を育み、ご当地餃子の東西の代表格になった。...
View Article中国農薬餃子が宇都宮餃子に残した影響 (3)
「ぎょうざ」購入額の2007年の統計が浜松にはない。だから、中国農薬餃子事件の影響で、08年にどの程度減少したのかは明らかではないが、減少したことには間違いないだろう。ただ、浜松の場合、減少幅が全国のレベルをはるかに超えた宇都宮の場合と異なり、最小限の減少にとどめたと推測される。...
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中国農薬餃子が宇都宮餃子に残した影響 (4) 家計調査における「ぎょうざ」購入金額で、浜松が宇都宮餃子を猛追している大きな理由が、宇都宮と浜松の餃子事情の違いによると思われるのだが、もうひとつ、浜松に有利な事情がある。それは、浜松の人々による、浜松餃子の発見(再発見)である。...
View Article餃子だって麺料理!? (17)
餃子が日本で登場する条件(1) 日本は、中国の麺料理を次々に受け入れてきた。しかし、そのままの形で受け入れるのではなく、日本式にアレンジしながらの受け入れだった。逆にいえば、和風にアレンジ可能な麺料理は受け入れ、そうでないものは拒否した。餃子は、その拒否された組である。だが、戦争を経て事態は変わった。...
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餃子が日本で登場する条件(3) 第三の条件、餃子を食べる人が登場し、それが拡大して消費者層を形成するのは、餃子を作る人のそれよりも遅れた。日本の食文化は、餃子を受け入れる素地がなかった。そのため、餃子を作れる料理人は多数存在していたはずだが、餃子は日本に入り込むことができなかった。...
View Article餃子だって麺料理!? (20)
戦争が終わって、餃子を作る人と食べる人の層は厚くなり、日本に餃子が登場する条件が整った。だが、結果的に餃子が普及する条件を整えた戦争と、その終結後の社会情勢は、日本の餃子の進路に大きく影響した。 餃子が、日本の食卓に登場するのが戦後であったことが、中国の餃子と日本の餃子を異なるものした。...
View Article餃子だって麺料理!? (21)
これまで、中国の麺料理(小麦粉料理)を日本が受け入れる時、そのまま受け入れたのでなく、何らかのアレンジが加えられてきた。肉食禁止令化の日本においては、肉、特に豚肉の忌避、脂肪分への忌避が顕著であり、そのためアレンジというより、根本的な和風化がほどこされ、もとの料理とは全く異なるものになることもしばしばだった。...
View Article餃子だって麺料理!? (22)
それまで、日本人の主食は米だった。その米が、戦後の日本では非常な不足に見舞われた。敗戦の結果、旧植民地からの食糧移入は途絶えた。しかも、多くの復員兵や帰還者によって、その必要量は増大している。肝心の国内生産は、生産の担い手が徴兵され、化学肥料の不足もあり、不作が続いた。戦争が終わった昭和20年産のコメの作況指数(平年を100としてその年の取れ高を表す)は、67にとどまった。国内で不足する分は輸入に頼...
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