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Channel: 宇都宮餃子連
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餃子だって麺料理!? (22)

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それまで、日本人の主食は米だった。その米が、戦後の日本では非常な不足に見舞われた。敗戦の結果、旧植民地からの食糧移入は途絶えた。しかも、多くの復員兵や帰還者によって、その必要量は増大している。肝心の国内生産は、生産の担い手が徴兵され、化学肥料の不足もあり、不作が続いた。戦争が終わった昭和20年産のコメの作況指数(平年を100としてその年の取れ高を表す)は、67にとどまった。国内で不足する分は輸入に頼るしかないのだが、それもままならなかった。この年の不作は日本だけではなかった。アジアのコメ、ヨーロッパの小麦がいずれも不作だったのである。余裕のあるのは、アメリカだけだった。援助と言うかたちでアメリカ産の小麦が比較的豊富に供給されることになる。
 
比較的豊富に供給された小麦粉を使った料理がまずは提供されるのが当然だった。全国には、戦前から小麦粉料理が定着していた地域が少なくない。それらの料理はこの時期、大発展を遂げる。広島のお好み焼き、大阪のたこ焼き、東京のもんじゃなどがそれである。
 
空襲による被災で、多くの都市が焼け野原からの再出発を余儀なくされた。住む家すら不足する中、多くに飲食店は店舗を構えることができず、屋台から出発した。これら、戦後に大発展を遂げた料理もまた屋台での営業から始まっている。
 
ラーメンもまた、戦前から定着していた地域がいくつかあった。東京も、その仲間である。下地が有り、しかも多くの中華料理人が存在したであろう東京で、屋台の営業となればまずラーメンが選択されるのは自然だった。そして、餃子は、このラーメンのサイド・メニューとして選ばれる。ラーメンとは材料がほぼ重なるため、新たな材料の仕入れの必要がない。中華料理人であれば、すでに餃子の作り方も心得ている。これで、選ばれなければ、その方がもっと不思議だろう。
 
だが、ラーメンとともに供せられる餃子であれば、水餃子であってはならない。バツティングしてしまう。狭い屋台での営業であれば、メニューも絞らざるを得ない。同じような材料でできるのは好都合だが、まるで異なる感じの料理でなければ逆に不都合である。焼餃子が選択されるのは当然であり、日本の餃子が水餃子でなく焼餃子になった二つ目の理由がここにある。

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