「蘭鈴」と「大銀杏」の風景
宇都宮市の名木と言われる銀杏がある。樹齢400年、33mの高さと6.4mの巨木が立っているところは、かつての宇都宮城の中である。いまは大谷石の石垣に囲まれている
が、元は南北にのびていた土塁上に植えられていた。西側(写真の後ろ側)は百堀、東側に三の丸広場があった。江戸時代の初期、宇都宮城主となった本多正純が、本格的に市街と城廓の整備を行い、今日の宇都宮の基本的な形を作り上げた。大銀杏はその頃から宇都宮の移り変わりを見てきたことになる。
大銀杏は、その後二度にわたって災厄に見舞われた。一度目は、明治維新の際の戊辰戦争。宇都宮城は、新選組副長だった土方歳三に率いられる旧幕軍
の一部によって落城の憂き目を見た(1868年・慶応4年)。宇都宮城は、一部を残して焼失、城下も8割以上が焼けである野原となった。城廓一帯は、その後、民間に払い下げられ、城門などの痕跡は喪われていったが、大銀杏はかろうじて残ることができた。二度目は第二次世界大戦の終戦間際(1945年・昭和20年)、B29、133機による空襲。第14師団の膝元であり、また、軍需工場が多数置かれていたためで、罹災人口47976人、死者521人を数えた。市街地の大半が焼かれ、大銀杏も「真っ黒に焼けるほどの被害を受け」た(写真・大銀杏のプレート)。だが、「翌年には、新芽を吹き見事に再生」、宇都宮復興のシンボル的な散在になり、今も健在である。
宇都宮復興のシンボルである大銀杏は、宇都宮餃子の出発の地にもなる。1953年(昭和28年)、この大銀杏の下に、一軒の餃子屋台が店開きし
た。「蘭鈴」である。蘭鈴こそ、宇都宮の餃子の草分けとなる餃子店である。
宇都宮の餃子のスタートは、本来は喫茶店である「宮茶房」であった。戦中・戦後の食糧危機と、飲食店の営業禁止が、喫茶店での餃子にならざるを得なかった。食糧事情は徐々に回復し、1949年(昭和24年)には、飲食店の開店が可能になった。ようやく、宇都宮に餃子店が開店するための障害が一つ取り除かれた。だが、開店が可能になっても、おいそれと店舗を構えるわけにはいかなかった。あの大空襲で市街の大半が焼け、9000世帯を超える市民が家を失っている。当時の宇都宮では店舗はおろか、住宅すら不足している。しかも、蘭鈴の経営者である鈴木フクは、当時、三十台半ばで、息子と二人で親類に身を寄せていたという。戦争で夫を失ったのだろうか。いつまでも親類に厄介になっているわけにもいかず、息子と二人が食べていくために「自立した商売がしたい」と考えていたと言う。こうした時、知人の勧めがあり、餃子店を開くことにした。蘭鈴が屋台から出発するのは、自然の流れであろう、
蘭鈴のメニューは、知人に勧められた餃子を提供することにした。鈴木は、餃子の作り方を知らなかった。開業を勧めた知人が、それも教えてくれるというので、開業に踏み切った。この知人は、旧満州の生まれで、戦後に宇都宮にやってきた人だという。だが、教えてもらった餃子は「豚肉と白菜中心」の中国北部の餃子ではなかった。
蘭鈴の餃子は、ひき肉、ニラ、玉ねぎ、貝柱、キクラゲ、いり卵などが入っていたとされる。ときには、エビ、ナマコを入れたこともあり、こうした食材の仕入れに東京の築地まで出かけていたと証言されている。食糧不足は、依然として続いていたのであろうが、それでも一時よりは改善された様子が窺える。蘭鈴の餃子の豊富な具材は、中国南部の、飲茶系統の餃子に思える。
中国北部で、日本人が覚えてきた「餃子」は家庭料理で、料理店で供されるものではなかった。習い覚えた家庭料理の餃子で商売することに踏み切るのは飛躍を必要とする。「餃子を売る」という発想と餃子の中味を考慮すると、この知人は中国料理の料理人だった可能性が高い。多少は好転してきた食糧事情の中で、餃子での商売を考えるのは、それまでも餃子をメニューに載せてきた中国料理店の関係者がまず先陣を勤めるのは、当然のなりゆきだろう。鈴木フクに、餃子を教えたのは、どうも一般の引揚者ではなかったように思えるのである。
中国北部で、日本人が覚えてきた「餃子」は家庭料理で、料理店で供されるものではなかった。習い覚えた家庭料理の餃子で商売することに踏み切るのは飛躍を必要とする。「餃子を売る」という発想と餃子の中味を考慮すると、この知人は中国料理の料理人だった可能性が高い。多少は好転してきた食糧事情の中で、餃子での商売を考えるのは、それまでも餃子をメニューに載せてきた中国料理店の関係者がまず先陣を勤めるのは、当然のなりゆきだろう。鈴木フクに、餃子を教えたのは、どうも一般の引揚者ではなかったように思えるのである。