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Channel: 宇都宮餃子連
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宇都宮餃子の風景 1 「宮茶房」と「宮の橋」の風景

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宇都宮餃子の風景
 
1 「宮茶房」と「宮の橋」の風景
 
宇都宮で、最初に餃子をメニューにのせていたとされるのが宮茶房である。JR宇都宮駅前からまっすぐ西に延びる大通りがある。宇都宮駅と市街地の間には田川が流れ、そこに「宮の橋」がかかっている。駅から市街地に向かって歩くとすぐ宮の橋だが、その手前の右側に宮茶房があったらしい。現在は、コンビニとチサンホテルが建っているあたりだろうか。当時を窺わせるものは何もない。だが、駅の周辺には、多くの餃子店がひしめいている。1軒の喫茶店から始まった宇都宮の餃子がここにある。
 
 
イメージ 1
 
宮茶房は、名前からして喫茶店のようだ。だが、なぜ喫茶店が宇都宮における餃子の第一号なのか。宮茶房は、1951年(昭和26年)から55年ぐらいまで営業していたとされるが、定かではない。開店の時期はもっと早いのかもしれない。喫茶店と餃子といういささか不釣り合いな組み合わせがそう疑わせる。日本で餃子が普通に食べられるようになったのは戦後のことである。敗戦により、多くの軍人・民間人が復員あるいは引揚者として戻ってきた。彼らの多くは餃子の故郷である中国からの帰還であり、中国で餃子を食べ、あるいは餃子を作ることを覚えてきた人たちである。
 
うどんの本場、香川県では喫茶店のメニューに讃岐うどんが載っている。それほど、うどんが生活に浸透しているわけだ。戦後すぐの宇都宮で餃子がそれほど普及していたはずがない。宮茶房という喫茶店が、宇都宮における最初のメニューとされ、それ以前に餃子が販売されていたことは確認されていない。あるいは、宮茶房以前にもあったのかもしれないが、いずれにしてもそれほど定着していたとは思われない。いち早く餃子を登場させたのは東京であった。その主役は中華料理の料理人が担った。餃子が中華料理の中の一品であれば当然だったろう。ラーメン店であれば不思議でもなんでもない。喫茶店ではいかにもミスマッチである。
 
食糧の配給制は戦中から続いていた。しかも欠配が普通のことだった。食糧事情は悪化し、政府は、配給確保のための食糧調達に躍起になった。1947年に、全国の飲食店(料理店、飲食店、カフェー、飲食露店、待合、芝居茶屋等設備を設け客に飲食物を供し又は供する慣行のある営業)33万軒の営業が禁止されたが、これも「主要食糧等のやみ取引を防止しその有効な活用を促進するため」だった。例外的に営業が許された業種もある。外食券食堂、宿屋、喫茶店などである。
 
配給のひとつの形態に「外食券」というものがあった。配給の制度として米穀通帳が発行されていた。これが無いと配給が受けられない。この通帳を持っていくと、配給の代わりに1日3枚あての外食券が渡された。それを外食券食堂に持っていけば外食が可能というもの。宿屋に泊る際も同じこと、外食券がないと食事ができなかった。外食せざるを得ない人々が存在する以上、外食券とそれを使用できる場所が必要なので、営業が許可されている。喫茶店は、これとは異なり、「酒類以外の飲物、果物又は指定主食を原材料としない菓子類を提供する営業」として営業が許された。こうして営業が禁止された飲食店が再び営業が許されるのは、49年になってからである。
 
47年から49年にかけて、飲食店の営業は基本的に禁止されていた。しかし、喫茶店は食事を提供しないということで、営業が許可されていた。このため、飲食店の一部には、喫茶店として店を構え、表向きには食事を提供しないが、裏ではヤミの食材を使って提供することが普通に行われた。宮茶房がこの頃営業していたとすれば、こっそりと餃子を提供していてもおかしくない。喫茶店と餃子という変な取り合わせが、じつは当然のことになる。飲食店の営業が再開されれば、裏メニューであった餃子を表に出せる。宇都宮で餃子を初めてメニューにのせたのが喫茶店であるという事情の背景には、戦後の食糧事情と、飲食店の営業禁止があるのではないか、筆者は推測している。

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