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宇都宮餃子祭りに「キリン・午後の紅茶おいしい無糖」が並ぶ風景(宇都宮餃子の風景)

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宇都宮餃子祭りに「キリン・午後の紅茶おいしい無糖」が並ぶ風景(宇都宮餃子の風景)
 
11月3,4日、宇都宮餃子祭りが開かれた。例年の分散開催から、今年は宇都宮城址公園に一堂に集結しての餃子祭りで、例年に増しても賑わった。
 
写真は、餃子祭りのプログライメージ 1ムの一つ、宇都宮餃子利き餃子大会である。ゲーム自体は、まず餃子を試食し、後から食べた3種類の餃子のどれなのかを当てる他愛のないものである。口のリフレッシュのため、飲物が用意されている。このペットボトル、餃子のことだからウーロン茶が普通だが、よく見ると紅茶である。紅茶と餃子の相性はいいのか、多少首をかしげるところだ。
 
イメージ 2この紅茶、実はキリンビバレッジの「午後の紅茶おいしい無糖」である。そういえば、テレビでも「おにぎりと合う」とコマーシャルが流れている。いわく「無糖の紅茶はお茶ですから」。なるほど、紅茶はお茶である。紅茶もウーロン茶も日本茶も、製造過程が違うだけでお茶の葉から作ることには変わらない。キリン午後の紅茶のスペシャル・アドバイザーの磯淵猛氏によれば、「中国の福建省では、昼食も夕食も食事の時は、ずっと紅茶が出てきます。普通に飲むよりも薄く淹れて飲茶のように食事と一緒に味わう。餃子にも紅茶をイメージ 3合わせるんです」だそうだ。この紅茶、「餃子に合う!」と「宇都宮日本一奪還計画」のメインキャラクター「宮の天狗様」のお墨付きを得たともいう。宮の天狗様は、浜松市に家計調査の「ぎょうざ」で日本一を奪われたことをきっかけに、「日本一が当たり前とテングになっていた」ことを反省し、気持ちも新たに努力する決意を鮮明にしたキャラクターとされる。天狗様だけに、餃子に合う紅茶かどうか、充分に鼻が利いたのだろう。
 
 
餃子と紅茶の組み合わせは、先入観からか、多少の意外感があるが、紅茶と宇都宮の組み合わせにはそれはない。21年からの3年間平均の購入額では5位(1332円)だが、購入量(411グラム)では2位である。全国1位も記録しており、宇都宮は紅茶の街でもあるのである。
 
宇都宮餃子とキリンも相性がいいともいえる。栃木県は、ビール麦の一大生産地である。これを利用してキリンビールが「一番搾り」を生産する工場が宇都宮市の隣、高根沢町にあった。宇都宮の餃子には、地元の材料を使い地元の工場で生産されたビールということで、宣伝も行われた。工場は2010年10月27日をもって撤退になってしまったが、宇都宮餃子とのいい関係は続いているようだ。「グオーザ日本一奪還を応援」ということで、宇都宮餃子食べ歩き券や一番搾りをプレゼントするキャンペーンも企画された。
 
宇都宮餃子・紅茶・キリンは、それぞれ縁(えにし)で結ばれているようで、宇都宮餃子祭りにキリン・午後の紅茶が並ぶ風景は至極当然なのかもしれない。「天狗飛切りの術」ということもある。飛切りの結果が訪れると良いのだが。
 
宇都宮餃子の風景を歩く
風景にも歴史がある。そこには、その風景を作ってきた時の流れが積み重なっている。何気ない風景でも、その過去を探れば、歴史の1ページがよみがえる。風景を歩くことは、歴史を歩くことに繋がる。宇都宮餃子の風景を歩けば、宇都宮餃子の歴史が見えてくることだろう。

宇都宮駅に餃子のお土産が並ぶ風景(宇都宮餃子の風景)

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宇都宮駅に餃子のお土産が並ぶ風景(宇都宮餃子の風景)
 
宇都宮餃子が有名になる前、宇都宮餃子をお土産にすることは非常に困難だった。そもそも、宇都宮が餃子の街であることを誰も知らなかった。宇都宮の人間にとって、餃子は日常的な食べ物にすぎない。餃子店で餃子を食べるのも日常のこと、焼餃子だけでなく、生餃子を購入し、家に持ち帰ることは当たり前であったが、要する時間は短く、特別な配慮をすることなく持ち帰れた。冷凍してある生餃子は、短時間であれば解凍することもなく、帰宅してすぐ冷凍庫に放り込めばすむことだった。ところが、宇都宮餃子が有名になり、餃子目的の観光客が表れ始めると事態は一変する。「お土産に餃子を持ち帰りたい」という当然の要求に、宇都宮の餃子店は対応できなかった。
 
宇都宮餃子の「生」は、加熱処理をすることなく冷凍している。昔は注文を受けてから餃子を包んでいた。そうしないと、餃子の皮が餡の水分を吸収し、ぐずぐずになってしまう。その後、冷凍技術の発展と冷凍庫の普及で、餃子を冷凍し保存することができるようになり、一定の作り置きが可能になった。冷凍しておいた餃子は、解凍すると、やはり皮が水分を帯びて収拾がつかない状態になるので、冷凍状態のまま調理することになる。
 
宇都宮餃子をお土産にするためには、冷凍状態を保って持ち帰れるようにしなければならない。いまでこそ、どの餃子店も発泡スチロール製の保冷箱や、ドライアイスを常備しているが、当初はその必要性もなく、そのノウハウもなかった。遠くのお客さんには事情を説明して断ることも多く、どうしてもという場合は、困り果てた挙句、新聞紙1日分で餃子を包み込む裏技を開発した餃子店もあった。新聞紙は優秀な断熱材で、これで数時間の持ち歩きが可能だった。
 
宇都宮餃子のお土産化にいち早く着手したのは、宇都宮餃子館と青源みそしる亭だった。宇都宮駅コンコースの売店に並ぶお土産餃子は、この二つの餃子である時代が長く続いた。宇都宮餃子館は、駅前に店舗を展開するなど、観光客をターゲットに販路を拡大する戦略をとっており、お土産化も当然のなりゆきだろう。青源味噌は、嘉永3年(1625)創業の老舗の味噌屋である。平成2年(1990)に、味噌の新たな販路を求め、市内本町に「青源みそしる亭」をオープンさせた。みそ汁を中心にすえた食事処だった。宇都宮餃子を一躍メジャーに押し上げたテレビ東京の「おまかせ!山田商会」での放映の年(平成5年・1993)、「みそスープ水餃子」を売りだし、みそしる亭も餃子店に転換させた。宇都宮餃子館も青源みそしる亭も、宇都宮餃子がメジャーになってからの新興餃子店である。しかも、宇都宮の餃子店のほとんどが家族による小規模経営であるのに対し、株式会社というそれなりの組織であった。そうであればこそ、他に先駆けて宇都宮餃子のお土産化を成功させることができた。宇都宮駅に、老舗の餃子店の餃子が並ぶのは、まだまだ先のことだった。
 
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東京スカイツリーと宇都宮餃子を結ぶ東武特急「しもつけ」

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 東京スカイツリーと宇都宮餃子を結ぶ東武特急「しもつけ」
 
東武宇都宮線に特急「しもつけ」が走っていることをご存じだろうか。おそらく、地元でも知っている人は少ないのではないだろうか。そんな「しもつけ」が、関東地方の私鉄有料特急TOP5・関東編で2位に選ばれた。調査したのは「マイナビ」で、マイナビニュース会員1000人のアンケート調査。
 
イメージ 11位は、小田急電鉄のロマンスカー「はこね・スーパーはこね」。これは納得がいく。行先も箱根だし、CMなどでもおなじみで、知名度は抜群だろう。2位が「以外にも(と言っては失礼だけど)…聞きなれない…東武特急しもつけ」だったというのだ。調査したマイナビも、戸惑ったようだ。しかも、3位から5位までも東武特急(「ゆのさと」・浅草‐新藤原、「きりふり」・浅草‐東武日光、「スペーシアけごん」・浅草‐東武日光・鬼怒川温泉)だという。関東の私鉄特急は、このほかにも京成スカイライナーや西武レッドアローもある。東武が、これらを抑えて軒並みベスト5入りを果たしたのは何故だろう。また、東武内でも、もっともマイナーであろう「しもつけ」が最上位なのだろうか。
 
すぐ思いつくのは、「東京スカイツリー」ブームである。最寄駅はもと「押上駅」を改称した「東京スカイツリー駅」で、東武沿線である。東武特急の出発駅はいずれも浅草駅なので、これで説明がつくとして、イメージ 2目的駅の順位の説明がつきにくい。マイナビでは、「宇都宮に『餃子』をイメージした人も多かったかもしれない?」とコメントしている。そうであれば、多くの人たちが「日光東照宮」や「鬼怒川温泉」よりも「宇都宮餃子」に魅力を感じていることになる。総務庁家計調査の「ぎょうざ」購入金額で、浜松に苦杯をなめた宇都宮にとってうれしい話である。
 
各特急を選んだ理由を見ると、1位のロマンスカーは「子供の頃ロマンスカーに憧れていた」、「車内サービイメージ 3スと全面展望、独特な雰囲気のある客室が魅力的」とプラスの評価である。ところが、2位以下のそれは、「どんな列車か知らないから」(「しもつけ」)、「名前が気に入った」(「ゆのさと」)、「なんとなく乗ってみたい」(「きりふり」)といった調子のコメントが並ぶ。してみると、東武特急内の順位はあまり知られていない順位、乗ったことのない順位と勘繰ることもできる。「しもつけ」が、栃木県の旧国名「下野(しもつけ)」に由来することを知っている人が何人いたのだろう。
 
いやいや、理由はともあれ、選ばれたことは嬉しいことだ。この際、東京スカイツリーと宇都宮餃子を結ぶ東武特急「しもつけ」で、目と口を楽しんではいかがだろうか。「しもつけ」は、東京スカイツリー駅からも乗車できるのです。

「餃子小町」に宇都宮餃子のお土産が並ぶ風景

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「餃子小町」に宇都宮餃子のお土産が並ぶ風景
 
JR宇都宮駅の2階コンコースに「餃子小町」はある。その中に、協同組合宇都宮餃子会が「来らっせ」を出店している。そこには、宇都宮餃子の基礎を築いてきた老舗から新しい宇都宮餃子まで、30を超えるお土産餃子が並んでいる。ここに来れば、市内に散らばった餃子店を回らなくても、希望の餃子をチョイスできる。
 
宇都宮餃子をお土産として販売するのは、そう簡単なことではなかった。よく誤解されるのだが、宇都宮の餃子は冷凍食品ではない。冷凍食品として販売されている物は、いくつもの基準があり、それをクリヤーするには相当な設備を要する。大企業だからできることで、とても、街の餃子屋さんの手に負えるようなものではない。それでも、冷凍状態になっているのは、餃子の餡を皮に包んだ状態のままでは、とんでもないことになるからである。昔は、餃子は注文を受けてから、別々に用意された餡を皮に包むものだった。餡からにじみ出る水分は、小麦粉でできた皮に吸収され、すぐ、ぐちゃぐちゃになってしまい、作り置きができなかったのだ。作り置きができるようになったのは、冷凍技術と冷凍庫の普及のおかげだ。包んだ餃子をすぐ冷凍してしまえばよくなったのだ。調理もまた、冷凍状態を保ったまましなければならない。解凍してからというわけにはいかないのだ。だから、宇都宮餃子のお土産に子は、「すぐ冷凍庫に保存してください」という注意書きがついているはずだ。
 
宇都宮餃子のお土産品を販売するということは、だから、餃子を製造してから販売するまで冷凍状態を保つだけでなく、販売後もその餃子が家庭の冷凍庫に収まるまで、冷凍状態を保てるようにしなければならないということである。ところが、これは簡単なことではない。来らっせでは、お土産用の発泡スチロール製の保冷箱とドライアイスが用意されている。しかし、これを用意するのが大変なのだ。
 
保冷箱は、市販のものにもいろいろなサイズがある。中に詰める餃子の量に合う保冷箱が見つかれば良いのだが、ピッタリのものはそうそうない。ピッタリの物をメーカに作ってもらおうとすると、これが大変なのだ。まず、それを作るための型を作らなければならないのだが、これが高い。そのうえ、少量生産では応じてくれない。大量に作ってもらうと費用もかかるし、保管のための広いスペースを用意しなければならない。ちょっとやそっとの販売量では採算が取れないのだ。ドライアイスにも問題がある。ドライアイスは保存するのが難しい品物だ。外に置けば、すぐに昇華して炭酸ガスに化けてしまう。密閉して保存するが、それでも目減りがかなり激しい。つまりロスが多い。これを常備するのはコストをペイするのが容易ではない。宇都宮の市内に散らばっている、つまりその地域で営業が成り立っている餃子店にとって、大きなリスクを覚悟して、お土産の餃子を積極的に売る必要はなかった。
 
情勢が変わりはじめたのは、平成12年(2000年)だった。この年、宇都宮餃子会は協同組合化をおこなった。宇都宮餃子が有名になると、宇都宮餃子を騙るニセモノに悩まされることが多くなった。このため、餃子会は宇都宮餃子を商標として登録することを目指していた。商標登録の為には餃子会を協同組合に改組する必要があったのだが、協同組合になると「事業」を行わなければならない。そこで、商工会議所が運営していた「おいしい餃子とふるさと情報館・来らっせ」を餃子会が引き継ぐことになった。餃子会は、その運営費を稼ぐため、宇都宮餃子のお土産部門を拡充することにした。冷凍ショーケスを設置し、加入組合員に納入を求めた。お土産の販売経験のない多くの餃子店には戸惑いが広がった。まず、餃子を詰める箱がない。仕方なしに、ビニールの袋に冷凍の生餃子を詰め、テープで封をするスタイルで出発することにした。「包装」した餃子には賞味期限や原材料を記したラベルを貼らなければならないのだが、餃子会はラベルプリンターを購入し、各店のラベル印刷も代行した。ビニール袋入りの餃子をそのままで販売するわけにもいかず、それを入れるための外函も共用できるものを餃子会で作成した。てんやわんやの内にお土産餃子の販売が始まり、それが軌道に乗ると、各餃子店は独自の箱の作成など、改善・改良を進められるようになった。
 
こうして、お土産販売のノウハウを作り上げてきた餃子会は、宇都宮駅コンコースで営業を開始した餃子小町内に「来らっせパセオ店」をオープンさせた。宇都宮駅で宇都宮餃子を買い揃えることが、ようやくできるようになったのである。宇都宮餃子が有名になったのは、平成5年(1993年)からである。来らっせパセオ店の進出は平成17年、12年間の歳月を費やして、宇都宮駅に宇都宮餃子のお土産が並ぶ風景に辿りついたのである。
 
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正月に餃子のある風景

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正月に餃子のある風景
 
正月と言えば、雑煮である。江戸時代の商家では、縁起をかつぐため、その餅のいくつかに、お金を入れる習慣があったという。お金と餅で「金持ちになる」と洒落たわけだ。同じ習慣が中国でもあった。こちらは餅でなくて餃子。目出度いときに餅が出てくるのは日本だが、中国では餃子がその役割である。餃子にお金を包み込み、その餃子に当たった者は金運に恵まれるというのも、日本と同じ。どこの国でも、同じようなことを考えるようだ。
 
中国では、小麦粉料理全般を「麺料理」と称する。麺は、日本では中国より狭い意味になってしまい、餃子を、麺料理だという人はいないだろうが、中国では立派にそのグループの一員である。中国で、小麦粉料理が一般的になるのは紀元前200年ごろからの漢の時代である。小麦粉に水分を加え練るところから、調理が始まるが、これを「餅(ピン)」といった。この後の調理法によって、焼く「焼餅」、蒸す「蒸餅」、揚げる「油餅」、茹でる「湯餅」に分化する。日本では、焼餃子がポピュラーだが、中国では水餃子が主流なので、餃子は湯餅の仲間になる。
 
小麦粉料理の「餅(ピン)」は、日本ではもち米を材料とする食品である「餅(もち)」に変化する。変化したが、目出度い食べ物としての性格は受け継がれた。それなら、餅入りの雑煮に飽きたら、餃子入りの雑煮にしてはどうだろう。手間はいらない。焼いた餅のかわりに茹でた餃子を入れればいい。汁も具も同じで構わない。日本式の「餅(もち)」が、中国式の「餅(ピン)」と入れ替わるだけである。これだけで、二つの国の縁起を担ぐことができる。
 
年始のご挨拶は「あけましておめでとうございます」だが、江戸時代にはもった簡単にして明快な挨拶があった。いわく、「御慶」。2012年は、宇都宮餃子にとっても多難な年だった。あの大震災以来、消費の低迷は続き、浜松市との家計調査「ぎょうざ購入額」日本一の争いも、苦戦を余儀なくされた。今年こその願いを込めて、餃子の雑煮を食べてはどうだろう。
 
「餃慶 !」

宇都宮餃子をなめてはいけない(餃子劇場の閉幕)

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宇都宮餃子をなめてはいけない(餃子劇場の閉幕)
 
ある日、気が付いたら「フードテーマパーク餃子劇場」が消えていた。餃子劇場は、2011年11月25日に、「餃子共和国」の跡地にオープンした。共和国と劇場が共に閉鎖に追い込まれたわけだが、その状況にははっきりした違いがある。共和国は一定の成功を収めていたのだが、ビルの家主であったパチンコ店が営業不振で撤退し、そのあおりをくってしまった。一方、劇場は、それ自体の営業不振により閉鎖せざるを得なかったのである。
 
共和国は、宇都宮餃子の名店や新鋭店が出店し、餃子のフードテーマパークとしての魅力を十分持っていた。しかし、劇場は、残されていた旧共和国の設備をそのまま使えるという利点だけを頼りに企画されたもので、宇都宮餃子の出店も取り付けられないばかりか、各地のご当地餃子の出店もなかった。美川憲一などの芸能人によるプロデュースを売りにしたものの、それはほとんど看板上のもので、当の芸能人が訪れることさえほとんどなかった。餃子劇場と称しているものの、八つの店舗の内餃子店と言えたのは二店舗、餃子もメニューにあるのが四店舗、残り二店舗は餃子とまったく関係がない。餃子のイメージがあふれるスペースの再利用のため、そう名乗ったのか、餃子が名称についていれば、餃子の街・宇都宮だから客が呼べると思ったのだろうか。
 
 
結果は、オープン直後から閑散としており、営業時間になってもオープンしていない店舗すらある始末。「ヤバい、広すぎた」という自虐看板が立てられる状態に陥った。最後はついに、「餃子劇場RETORO TOWN」と改称、「新感覚のCLUB OPENN!!!昭和レトロ村とCLUBが融合した、誰でも楽しめるエンターテーメントスペース」に模様替え。「昭和の街並みあり。屋台村あり。CLUBあり。出会いあり。」だが、餃子はなくなってしまった。
 
宇都宮餃子が全国に名を馳せると、宇都宮では餃子店の開店が相次いだ。数多くの餃子店が誕生しては消え去っていった。生き残った餃子店は、それほど多くない。餃子劇場も、数多くの消え去った餃子店の仲間入りをしてしまった訳だ。宇都宮であれば、餃子店を開けば商売になると安易に考えてのかもしれない。だが、餃子の街・宇都宮であればこそ、餃子に対する評価は厳しい。宇都宮餃子をなめてはいけない。
 
 
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「宇都宮餃子日本一奪還運動」が敗因?(宇都宮VS浜松)

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「宇都宮餃子日本一奪還運動」が敗因?(宇都宮VS浜松)
 
「餃子日本一」の座は宇都宮が奪還するのか、それとも、浜松が死守するのかと注目を集めた総務省による「家計調査」2012年の集計結果が2月の初めにはあきらかになる。11月までの時点では浜松が387円リードで優位な情勢だ。この11か月宇都宮と浜松は猛烈なデットヒートを繰り広げた。1~6月の上半期で400円差をつけられた宇都宮が、7,8月の二ヶイメージ 1月で172円差まで追い上げ、この勢いで逆転を狙った。11月には宇都宮餃子祭りもあり、宇都宮市民へのアッピールも強化されたのだが、結果は期待を裏切り、9~10月にかけて、逆に差を広げられてしまった。宇都宮餃子会をはじめとする関係者にしてみれば「どうして?」という状況だが、実はその「日本一奪還運動」こそが、その原因ともいえる。
 
宇都宮と浜松が争っている「日本一」は、総務省の家計調査における「ぎょうざ」の購入金額である。ところが、この項目は餃子に消費される金額のごく一部分でしかない。餃子店などでの消費金額は、家計調査では「外食費」に分類される。たとえテイクアウトして家庭に持ち帰って食べても、「外食費」なのである。同じように、冷凍食品の餃子は「冷凍食品」の項目に、自家製の餃子を作る場合は、材料毎にそれぞれの項目に集計される。「ぎょうざ」は、スーパーや惣菜店などで購入した調理済みの餃子の金額しか該当しない。だから、餃子店などの「餃子」の購入(支出)額と、「ぎょうざ」のそれは競合関係にある。「餃子」を販売する宇都宮餃子会などが、「ぎょうざ」の購入を推進すること自体に矛盾がある。その矛盾を承知の上で、あえて「ぎょうざ」の購入推進を呼びかけたのだろうが、それを受けとめる側、つまり消費者が「ぎょうざ」を選ぶかイメージ 2「餃子」を選ぶかは微妙である。「宇都宮餃子日本一奪還」のため、「ぎょうざ」を食べようとアッピールしても、それが、スーパーなどの惣菜としての餃子だと理解できる消費者がどれだけいるのだろうか。もちろん説明はされているが、きちんと浸透しているとは思えない。「為すべきことは、ただひとつ。食って、食って、食いまくれ!」と、この運動のキャラクターである宮の天狗様が檄をとばせばとばすほど、受け取る側の意識は宇都宮餃子にいってしまう。
 
宇都宮の市民にとって、宇都宮餃子はごくごく身近な存在である。住んでいるところの近くには必ず餃子店がある。購入する利便性は、スーパーなどでのそれに引けをとらない。値段だって、差は少ない。宇都宮餃子は安いのも翌朝のひとつなのだから。加えて、味の問題がある。スーパーなどの「ぎょうざ」と、餃子店の「餃子」では、これはもう格段の開きがある。「ぎょうざ」購入を呼びかけても、効果は期待しにくい、それどころか、逆効果さえありうる原因がここにある。そうでなければ、餃子祭りが開催され、「日本一奪還運動」が熱を帯びていた時期(8~11月)に、「ぎょうざ」の購入額が伸びず、むしろ減少したことを理解できないだろう。「ぎょうざ」の消費推進が、逆に消費減少になる、皮肉な話だが、これもまた宇都宮が日本一の餃子の町であればこそである。

家計調査「ぎょうざ」の陣(宇都宮VS浜松)  (1) 戦いの前

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家計調査「ぎょうざ」の陣(宇都宮VS浜松)
 
総務省家計調査の「ぎょうざ」の項目をめぐる争いは、浜松市が宇都宮市をしりぞけ、2年連続で購入額日本一になった。この争い、実は2007年からの因縁があり、幾多の騒動、アクシデントの歴史がある。この6年間の紆余曲折を辿れば、宇都宮餃子と浜松餃子とそれぞれの市との姿を浮き彫りにすることができるかもしれない。
 
(1)  戦いの前
 
家計調査が始まった1946年当時は、調理された食品の販売はそれほど多くなく、「うなぎのかば焼」と「その他の魚介焼き物類」の項目が設定されているにすぎなかった。1950年にはこの2項目が「調理食料品類」に統合された。戦後の食糧危機も緩和され、町の惣菜店などで調理した食品の販売がようやく盛んになっていたことがうかがえる。1956年には「野菜サラダ」(その後「サラダ」に変更)が、1958年には「コロッケ」、「カツレツ」、「天ぷら・フライ」が「調理食料品類」から分離した。こうした食品は、家庭で調理されるより、肉屋などで出来合いを購入することが普通になっていた時代を反映している。
 
1970年は後に「外食産業元年」と言われるようになる。スカイラークなどのファミレス、マクドナルドなどのファストフード店が次々に登場した。それまで食事は家庭で摂る(内食)のが当然だったのだが、この後は外食が当たり前になっていく。同時に、すでに調理された食品を購入し家庭でたべる中食も一般化していく。1979年になると、惣菜がスーパーの売り場に並ぶようになり、「調理食料品類」の種類と購入額の増加が進むようになる。これを受けて、1987年に、「やきとり」、「ハンバーグ」とともに「ぎょうざ」が家計調査に登場するのである。家計調査の「ぎょうざ」は、この誕生のいきさつでもわかるとおり、惣菜店やスーパーなどで購入された調理済みの餃子だけが対象になっている。
 
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こうして、1987年からはじまる家計調査「ぎょうざ」だが、当初から宇都宮が購入額第一位を独占し続けていた。この事実に宇都宮市の職員が注目したことから、餃子による町おこしという奇想天外な取り組みが開始され、1993年ごろには、宇都宮=餃子の町であることが国民の常識にまで至った。
 
宇都宮が初めて「ぎょうざ」の項目でトップから陥落したのは、宇都宮餃子がブームとなった1995年のことだった。替わって一位になったのは、静岡市だった。ブームの中での一位陥落に、関係者は首をかしげたのだが、しかし、それは宇都宮餃子の弱さ、凋落を意味していなかった。宇都宮餃子が知られるようになると、宇都宮の人たちも宇都宮餃子に注目する。いままでスーパーなどで購入していた持ち帰り餃子を餃子店で購入する人が増えた。餃子店での購入は、家計調査では「外食費」になり、「ぎょうざ」の購入額は減ってしまった。翌年には、再びトップに返り咲き、購入額も増えていくことになる。ライバル視された静岡は、逆に減少傾向が続いた結果、やがて2位の座も失うことになる。
 
宇都宮餃子が有名になると、いわゆる「ご当地餃子」にも注目が集まるようになった。筆者は、どこが真の餃子の町なのかを裏付ける指標がないものか、考えあぐねていた。2005年ころのことである。家計調査では、すべての餃子の購入額は数字になっていない。餃子店の餃子は、外食費の一部分として扱われ、実際の購入額は不明である。「ぎょうざ」の購入額でも、明らかになるのは県庁所在地と政令指定都市に限られている。宇都宮のライバルである静岡は、往年の力を失っていた。静岡に換るライバルは存在するのか、存在するとすればどこなのか。これを発見するため思いついたのが、NTTの「ⅰタウンページ」の検索機能だった。ⅰタウンページでは、例えば「宇都宮市 餃子店」で検索をかけると、あらかじめ「餃子店」で登録している、宇都宮市にある企業・店舗が検出できる。この方法なら、地域ごとの餃子店の数が把握できる。大雑把に考えて、餃子店を名乗る店が多ければ多いほど、その地域の人は餃子が好きと考えていい。その結果浮かび上がってきたのが浜松だった。
 
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もちろん宇都宮市が断トツであることは動かなかった。2005年8月の結果を見ると、餃子店の数は153店で、静岡市の62店をはるかに超えていた。ためしに浜松市で検索すると、115店、宇都宮には及ばないものの、静岡の2倍近い。各々の市は、人口に大きな差がある。それを勘案するため、1店当たりの人口を算出してみると、もっとはっきりとした差が出た。三つの市の中では一番人口の多い静岡市が1店当たり11,330人なのに、浜松は5,234人だった。宇都宮の2,959人には及ばないものの、この数字を見れば宇都宮のライバルが浜松であることは明白に思えた。

家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松) (2) 浜松の奇襲攻撃(浜松日本一宣言)

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家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松)
(2) 浜松の奇襲攻撃(浜松日本一宣言)
 
2007年1月14日、TBSテレビ「噂の東京マガジン」は、「隠れ餃子大国、浜松市の謎」を放送した。「わが町こそ日本一だという浜松市」を取材し、「家計調査は、県庁所在地と政令指定都市しか調査対象にならない。浜松は対象外なので、市独自の調査をしたところ1位の宇都宮市の4倍以上だった」と浜松市長に語らせた。全国放送のTV番組に取り上げさせたあとで、浜松市はその独自の調査を発表し、「餃子消費量日本一」を宣言した。119日のことである。
 
筆者は、たまたまこの番組を見ていたのだが、これには驚かされた。浜松が「隠れ餃子大国」であることは、つとにそう考えていたので、ビックリはしない。浜松市が宇都宮と日本一を争うライバルになるであろうことも想定していたのは前章で述べた通りなので、これも驚くほどの事ではない。驚いたのは、宇都宮の4倍以上という1万9403円という金額だった。宇都宮の少し上という金額ならあり得るかもしれないが、4倍以上のそれは想像することさえできない。
 
この金額がどのようなカラクリで作られたのかは、その後入手した「市独自の調査」の報告書にあった。「実際の国の調査(家計調査)と同じ精度」と豪語する独自調査は、「あなたは餃子をどのくらい食べていますか」というアンケートにすぎなかった。1万9403円という金額の中には、家計調査では別項目(外食費)になる「餃子専門店や餃子を出すお店などでお持ち帰りした餃子」が加えられていた。そのうえで、家計調査における宇都宮の金額を持ち出し、それと比べて4倍以上と発表したのである。ねつ造にも等しい金額を根拠にした日本一宣言だが、実はこれこそ浜松の宇都宮に対する奇襲攻撃だった。
 
「浜松を餃子で有名にしたい」というのが、浜松市とその実働部隊である浜松餃子学会である。浜松市は2007年の4月に政令指定都市になる予定だった。黙っていても翌年からは浜松の「ぎょうざ」購入額が明白になる。浜松こそ日本一であることを確信しているなら、ただ待てばよかったのだ。自分たちで作り上げたいい加減な金額でなく、国(総務庁)の統計という権威のある金額で日本一と宣言できたはずだ。だが、浜松は待てなかった。家計調査で浜松が1位になる確証は何もなかった。宇都宮に次ぐ2位ではインパクトがない。浜松を餃子で有名にするためには是が非でも日本一の称号が欲しい。家計調査の結果が出る前が唯一のチャンスだった。客観的な統計のない今なら、独自の調査で日本一を称しても、誰もそれをウソだとは言えない。どうせやるなら話は大きい方が良い。僅差で日本一だというのでは響きがない。4倍以上といえば、多少の誤差はあったとしても、断トツの日本一と言い切れる。これほどのインパクトがあればマスコミも取り上げるであろう。
 
こうして浜松は日本一の座についた。巷には「餃子の日本一は宇都宮でなく浜松だった」という「事実」が何の確証もなく、いや確証がないからこそ広まっていった。この奇襲攻撃に対し、宇都宮には有効な反撃手段がなかった。反論すれば反論するほど、マスコミには面白おかしく取り上げられ、結局は浜松の宣伝に手を貸すだけの結果になる。浜松と浜松餃子学会の奇襲に、宇都宮と宇都宮餃子会は「大人の対応」で臨むしかなかった。「家計調査が発表されれば宇都宮が日本一だということが証明される」と冷静に対処した。
 
浜松の奇襲攻撃は成功した。たとえ、家計調査で浜松が日本一でないことが明白になろうと、それまでの間に浜松を餃子で有名にすることは達成した。

家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)  (3)嵐の前の静けさ

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家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)
(3)嵐の前の静けさ
 
浜松の奇襲攻撃に対し、宇都宮は冷静に対処した。浜松が示した「日本一」の根拠である独自調査の数字(19,403円)が、あまりにも途方もなかったからだ。一番少ない山口(1,519円)の4倍ならありうるかもしれない。事実、宇都宮は2010年に6,133円という記録をつくっている。だが、その宇都宮の4倍以上というのは、誰しもがあり得ないと思う金額である。「浜松餃子売り出しのPR作戦のための金額」であれば納得がいく。浜松が、浜松餃子の売り出そうとしている努力に水を差すことはない。餃子で町おこしを成功させた先輩として、ここは大人の対応が必要だというのが宇都宮の認識だったようだ。
 
宇都宮にはトップの座は揺るがないという自信があった。何らかのアクシデントがなければ。事実、宇都宮が家計調査に「ぎょうざ」の項目が設定された1987年以降、一位から陥落したことは1995年の一回しかなかった。静岡に苦杯を舐めさせられたのである。この年、なんのアクシデントがあったというのか。それはアクシデントいうより宇都宮にとって幸せな出来事だった。1993年、宇都宮は餃子の町として、一躍全国に名を馳せた。テレビ東京の番組「おまかせ山田商会」で、「宇都宮餃子大作戦」がシリーズで放送され、ブームに火がついたのである。家計調査の「ぎょうざ」は、惣菜店やスーパなどで売られている惣菜としての餃子だけが該当する。餃子店の餃子は、「ぎょうざ」でなく「外食」の項目にカウントされる。宇都宮餃子が大きな話題になると、それまで「ぎょうざ」を購入していた人も宇都宮餃子を購入するケースが増えたのだ。このアクシデントは、翌年には克服された。「ぎょうざ」の購入額は回復しただけでなく増加傾向を持続した。特に、全国平均の購入額が2000年にピークに達した、以降は長期低落傾向にあるなか、宇都宮だけ増加し続けた。惣菜の「ぎょうざ」と餃子店の餃子の共存共栄が実現していたのである。
 
 
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浜松が、独自調査で比較対象とし、浜松の4分の1以下として挙げた宇都宮の4,710円は2005年の数字である(※掲げた表は、全世帯の集計なので、二人以上の世帯を集計した4,710円より少ない)。浜松が家計調査の集計都市として登場する20062007年に、宇都宮は5,654円、5,381円と5千円の大台に到達している。2008年も宇都宮が大差でトップを守るであろうことは確実に思えた。「宇都宮に大差をつけて日本一」を豪語していた浜松も内心では「宇都宮には勝てない」と考えていた。「日本一宣言」の仕掛け人である浜松餃子学会の斎藤会長は、家計調査の結果が出たら「やっぱり宇都宮の餃子はさすが。日本一に改めて挑戦したい」と言おうと思っていたと、後に、告白している。
 
浜松市の奇襲攻撃は、宇都宮の静観によりホットな戦いに至らなかった。だが、それはこのあとの嵐の襲来の前の静けさにすぎなかった。だれも予想しなかった嵐は中国からやってくる。そして、それは、宇都宮にとって大きなアクシデントになる。

波乱の直接対決始まる(第1回戦―2008年) ― 家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)

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波乱の直接対決始まる(第1回戦―2008年) ― 家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)
 
家計調査は全国規模の調査だが、その集計は対象となったすべての市町村別に明らかにされる訳ではない。サンプル数の少ない地域を単独に集計しても、統計として意味がないからである。そこで、単独の集計は、各県庁所在地(東京都は区部)と、人口が多い(=サンプル数が多い)政令指定都市に限られている。浜松市は、県庁所在地ではなかったので単独での結果は公表されていなかった。その浜松市が政令指定都市になって、2008年からは、浜松市の数字が公表されることになった。家計調査という共通の土俵で浜松市の「ぎょうざ」の購入金額が明らかになり、客観的に宇都宮市との比較が可能になった。
 
浜松市が、日本一を宣言する根拠とした独自調査の金額(19,400円)と、直前の宇都宮市の家計調査の金額(2007年:5,022円)からみれば、浜松市の圧勝であるはずだった。もっとも、これは、浜松市の独自調査が正しいとしての予測である。「家計調査と同等の精度」と豪語しつつも、実際は勝ち目がないと浜松市側も考えていた。「大々的に『日本一宣言』すれば関心が寄せられる」、結果が出たら「『宇都宮の餃子はさすが』、『日本一に改めて挑戦したい』」と敗北を認めるシナリオを描いていたと、日本一宣言の仕掛け人である浜松餃子学会の会長が告白している。宇都宮市側は、自信と余裕をもって引き続き日本一であることを確信していた。宇都宮も、浜松も、結果の見通しは同じだったのだ。事実、家計調査の1月分の速報値(2人以上の世帯)では宇都宮の420円に対し、浜松は311円だった。これを年ベースに換算すれば、宇都宮は5,040円、浜松は3,732円となる。このままいけば、浜松側のシナリオ通りの展開になったかもしれない。ところが、そんなシナリオを吹き飛ばしてしまうアクシデントがおこる。
 
2008130日、中国「天洋食品」製の冷凍餃子を食べた日本の3家族10人が、有機リン系の農薬メタミドホスにより中毒を起こしていたことが公表された。23日には、未開封のものからメタミドホスが検出され、さらに中国製餃子に対する警戒感が増幅される。また、中国では前年の9月にも腎臓に障害をもたらす化学物質メラミンに汚染された乳児用粉ミルク事件が起きている。中国の食品安全管理に対する不信感は、農薬が検出された餃子にとどまらなかった。比較的安価な中国産の野菜などが、餃子の材料に使われているとして、スーパーや惣菜店の調理済み「ぎょうざ」や冷凍食品の売り上げが急減した。2月の家計調査の「ぎょうざ」購入額は全国平均では前年の60%に落ち込んだ。宇都宮の落ち込みは更に33.8%と大きかった。宇都宮だけが、全国平均の倍に近い落ち込みとなったのはなぜか。それは、宇都宮が餃子王国だったからからである。
 
「ぎょうざ」にせよ冷凍品の餃子にせよ、これを避けて餃子を購入するのは極めて困難だ。事件前の20073月と、事件後の20085月では、食卓に載った餃子のうち家で手作りした餃子の割合は、25%から45%に急上昇している(NTTデーターライフスケープマーケティング調べ)。安心して購入できる餃子がなければ、こうならざるを得ない。だが、宇都宮では事情が異なる。身近に、簡単にそして安価に手に入る餃子があるのだ。宇都宮には多くの餃子店が営業しており、しかも市内各地域に分散している。そこでは、調理済みの餃子も、冷凍した餃子も持ち帰れる。餃子店の焼餃子の1人前の価格は、東京都区部では364円であるのに、宇都宮は236円なのである(総務省「小売物価統計」)。
 
安全についても、宇都宮餃子会は迅速に対応した。事件翌日の131日から21日にかけて、加盟餃子店に緊急調査を行った。その結果、「中国産の餃子を使用あるいは販売している組合員はいない。材料についてもニンニクやしょうがなどの香辛料について、一部中国産が使用されているが、その安全管理は適切かつ厳正に行っている」ことが確認されたとして安全を宣言した。これによって、宇都宮餃子は心配された風評被害に巻き込まれることもなかった。それどころか、「連日流れる『ギョーザ』のニュースを見て、(それでも餃子を)食べたくなった人々が安全な商品を求めて並んだ。平塚さんは『逆風が追い風になった』と振り返る」ほどだった(2009.5.26・東京新聞)。「毒ギョーザ事件の影響は乗り越えた」とも宇都宮餃子会専務理事の平塚さんは語っている(同)。だが、宇都宮餃子はこの危機を乗り越えたが、家計調査の「ぎょうざ」購入額は依然嵐の中にいた。
 
事件のあおりを受けて、宇都宮の2008年の「ぎょうざ」購入額は、4,707円と、前年の875%にとどまった。一方、浜松は事件の影響を最低限に抑えたようだ。事件前の1月の金額(311円)を単純に12倍すると3,732円になる。実際の年間金額は3,669円なので、ほとんど差がない。「日本一宣言」以降、浜松市民に浜松餃子が浸透し、その結果、事件の影響は受けつつも、この金額になったのかもしれない。
 
宇都宮の「ぎょうざ」購入額は、その代替品が比較的入手し易いためもあり、なかなか復調しなかった。そのため、一時は、比較的堅調な浜松にリードを許す展開になったが、後半で逆転、結局千円以上の差で浜松の挑戦を退けた。直接対決の第1ラウンドは宇都宮の勝利となり、来年以降も宇都宮の「日本一」は揺るがないと誰しもが思ったことだろう。だが、事件の影響はまだおさまってはいなかった。2009年の家計調査の戦いは、宇都宮にとってさらに厳しさを増すことになる。
 
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波乱は続く(第2回戦―2009年) ― 家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)

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波乱は続く(第2回戦―2009年) ― 家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)
 
家計調査「ぎょうざ」購入額日本一をめぐる宇都宮と浜松の戦いは、中国製農薬餃子事件の影響で、波乱の幕開けとなった。この影響をもっとも大きく受けた宇都宮は、事件発生直後の20082月から、前年実績を大きく下回り、浜松にリードを許してしまった。年の後半からは地力にものを言わせて逆転し、一見、回復したかに見えたが、実は乱高下を繰り返す不安定な状況にあった。
 
2009年の「ぎょうざ」購入額は、全国的には回復基調と言ってよい。対前年比では111.8%ととなり、事件前の91.5%まで購入金額を戻している。浜松も対前年比112.8%と、ほぼ全国平均の水準をキープし、4,137円と4千円台に乗せてきた。こうした中、唯一の例外が宇都宮だった。事件直後からの減少傾向が止まらないのだ。前半は回復基調化と思われたのだが、後半からはまたもや落ち込んだ。結局、対前年比でも89%にとどまり、事件前の2007年の金額(5,382円)の77.8%(4,187円)に落ち込んだ。回復軌道に乗りきれない宇都宮は、順調に購入額を伸ばす浜松に激しく追い込まれた。浜松のこれまでの月間最高金額は403円だった。ところが、12月には、一挙に629円に記録を伸ばしたのである。これにより、宇都宮と浜松の金額差は一挙に縮まり、2009年のトータルは僅か50円差で宇都宮がかろうじて逃げ切ったのである。
 
 
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2009年、浜松は順調に「ぎょうざ」購入額を伸ばしていった。事件の影響がなかったわけではあるまい。独自の「日本一宣言」で浜松市民の浜松餃子へ注目が集まった。浜松餃子が注目されると、惣菜としての「ぎょうざ」の購入額も増大する。本来、「外食費」にカウントされる「餃子」と「ぎょうざ」は競合関係にある。その双方の購入額が増える現象は、かつて宇都宮でも生じた。上り調子の浜松は、事件の影響を物ともせず購入額を増やし続けることができたようだ。
 
宇都宮は、前回に述べたように家計調査の「ぎょうざ」から餃子店の餃子に乗り換えることが比較的容易である。一端乗り換えれば、それは比較的長く続くことになる。つまり宇都宮では、アクシデントにより「ぎょうざ」の購入金額が落ち込めば、容易には回復しないのである。宇都宮の低迷は、宇都宮が餃子の町であること、つまり、宇都宮餃子が地域に根付いていること、餃子の価格が比較的安いという宇都宮の特殊事情による。宇都宮と浜松のそれぞれの事情が50円差になった。
 
2009年は、50円の僅差ながら、宇都宮が日本一を死守した。しかし、伸び盛りの浜松からみれば日本一を奪取する可能性がでてきたと考えられる結果である。「惜しかった。いつ逆転してもおかしくない」と、浜松餃子学会の齋藤会長は語った。無理と思っていた日本一に手が届くところまできた。
もはや、浜松による「宇都宮はさすが」と和解するシナリオ(「波乱の直接対決」参照)はすっ飛んでしまった。浜松は、「餃子サミット」を独自に開催するなど宇都宮への挑戦姿勢を強めていく。
※当ブログ「悪名は無名に勝る」のか参照 http://blogs.yahoo.co.jp/tekisetuusui2351/65466587.html

家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)  宇都宮の復調(第3回戦・2010)

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家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)  宇都宮の復調(第3回戦・2010
 
浜松は、家計調査の独自集計が始まる2008年以前に「日本一宣言」をすることで、浜松餃子に注目を集める策戦をとった。実際に浜松の購入金額が明らかになれば、一位の宇都宮を「さすが」と讃え和解するというのが浜松の戦略だったことは、これまで述べてきたとおりである。この勝手なスケジュールを中国農薬餃子事件が狂わせた。予想以上に浜松が健闘し、日本一に手が届くところまできた。浜松は、和解の道を放棄し、なお一層の攻勢をかける。浜松は、これより前に浜松餃子まつりを開いていたが、2010年には、餃子で町おこしを実践している全国の団体を集めた「餃子サミット」を企画した。本来であれば、餃子による町おこしの先駆者である宇都宮には事前の相談・調整があるべきであろう。だが、浜松は、開催日の3か月前に突如として宇都宮の出席を打診した。宇都宮は、浜松の「日本一宣言」にはじまる一連の行動に不信感を抱いていたのでこれを拒否した。出席を断られた浜松は、さらに暴挙を重ねる。宇都宮餃子会には断りもなく、また、断られたことも隠して、宇都宮餃子会に加入している餃子店に参加を働きかけたのである。この事実を知った宇都宮餃子会は、当該餃子店から事情を聴取、その結果「この間の経緯を浜松側から聞いていない。宇都宮餃子会が不参加を決めたイベントには参加できない」と出店を取りやめた。宇都宮と浜松の関係は冷え込んだ。日本一を目前に、強気の姿勢を取り続けた浜松だったが、2010年の家計調査ではその期待を裏切る事態が進行していた。
 
 
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浜松は、2009年の家計調査「ぎょうざ」購入価格で、宇都宮に50円差まで迫った。2010年こそ悲願の日本一奪取が期待できる年だった。事実、浜松の「ぎょうざ」購入額は、1月こそ前年を下回ったものの、2月以降は順調に金額を積み上げた。1年間の合計では前年比114.9%の4,755円と、浜松が家計調査で独自の集計対象となって以来、3年連続で実績を伸ばした。この年の全国平均は微増の103.1%であり浜松の増加率は大きい。独自の「調査」を元に日本一を宣言して以来、全国的に浜松餃子への注目が集まった。浜松市民もまた、浜松餃子を再発見した。宇都宮餃子が全国で注目されたころ、餃子店の餃子だけでなく、餃子のすべての消費量が増加した。浜松でも、同様のことが起こっていると思われる。
 
一方の宇都宮は、中国農薬餃子事件の影響で2年連続の大幅な低落を続けていたが、2010年になってようやく回復しはじめた。回復し始めるや前年比で146.5%と驚異的な伸びを実現した。事件前の2007年の金額をも大幅に上回る6,134円は、家計調査に「ぎょうざ」が項目になって以来の最高金額である。事件がなければ、増えたであろう2年間分を、一挙に取り戻した格好である。上り調子の浜松を、復調した宇都宮が大差で退けた。「今年こそ日本一」という浜松の期待を木端微塵に打ち砕くほどの差であった。2008年、2009年は、中国農薬餃子事件というアクシデントによって、宇都宮と浜松の戦いは激戦となった。しかし、その影響が薄まれば、両者の差は歴然としていることが証明された。
 
家計調査の結果が出る前に「日本一宣言」をし、結果が出たら「敗北」を認め和解するというスケジュールは中国農薬餃子事件の影響で崩れた。浜松は、和解の選択を実行できないまま、逆に強気の戦略に転じたが、こんどは事件の影響の終焉により窮地に追い込まれたかにみえた。浜松の宇都宮も次に何が起きるかを予想だにできなかった。

再びの波乱-東北大地震と原発事故 家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松)

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家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松)
 
再びの波乱-東北大地震と原発事故
 
家計調査の「ぎょうざ」の項目は、2008年の中国農薬餃子事件の影響で、波乱が続いた。特に打撃の大きかった宇都宮は、「日本一」奪取を目論む浜松に思わぬ苦戦を強いられた。しかし、2010年になって、宇都宮はその影響をようやく脱し、それまでの苦戦が嘘のように、浜松に大差をつけて、「ぎょうざ」購入額日本一の座を守った。2011年になっても、この傾向は続いていた。12月の速報値では、宇都宮の923円に対し、浜松は681円にとどまった。このままでいけば、2011年も宇都宮の首位は動かないように見えた。しかし、3月、思いがけないアクシデントがおきた。東日本大震災である。
 
20113111446分、三陸沖を震源とする地震が発生した。マグニチュード9.0という規模は、あの関東大震災の7.9も上回る日本観測史上最大だった。地震による被害もさることながら、被害を拡大したのは津波の発生だった。岩手県大船渡市で40.1mを観測するなど、想定をはるかに上回る高さの津波が襲いかかり、最大で6㎞も遡上した。
 
事態をさらに複雑にしたのは、この津波により、東京電力福島第一原子力発電所が甚大な被害を受けたことである。原子炉の冷却に必要な外部電源が、地震による送電線の鉄塔倒壊などにより失われた。非常用のディーゼル発電機も、その設置場所が地下であったため、津波による浸水で故障、原子炉の冷却ができなくなった。核燃料による光熱により炉心溶解がおき水素が発生、充満した水素ガスが爆発、原子炉、建屋が大きく損傷した。この事故により、大量の放射性物質が放出され、広範囲な汚染を引き起こした。
 
東日本大震災により、宇都宮餃子も店舗や製造設備が被害を受けた。宇都宮みんみんの高根沢店は、店舗が大きなダメージを受け、営業停止に追い込まれ、後に、店舗を移転した。それでも直接的な被害は、震源地から離れていたため比較的軽微であった。それよりも大きな被害は、売り上げの大幅な減少だった。
 
総務省統計局の調査に「サービス産業動向調査」がある。5月分調査で、311日以降の売上高に影響したかどうかを調べ、「東日本大震災がサービス産業に与えた影響」を分析した。それによると、サービス産業全体の42.8%が「影響あり」と答えている。東北大震災に近い東日本(新潟・長野・静岡以東)では54.2%が影響を受けたと答えたが、西日本(富山・岐阜・愛知)では、30.4%にとどまっている。当然ながら、被災地に近いほど影響を受けたわけだ。産業別にみると、「運輸業、郵便業」が、交通網の混乱や電力不足によって大きく影響を受けたのは当然だろう(全国62.2%、東日本75.5%)。しかし、もっとも影響を受けたのは「宿泊業、飲食サービス業」だった(全国62.5%、東日本75.5%)。直接に被害を受けた地域だけでなく、大震災の惨状を見るにつけ、旅行や外食の自粛が広がった結果であろう。宇都宮餃子の売り上げを支えているのは、地元の消費者と、観光や仕事で宇都宮に来た人たちの消費である。宇都宮餃子は、このダブルパンチを浴び、四割程度の売り上げ減に陥ったようだ。
 
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家計調査の「ぎょうざ」の項目は、スーパーなどの惣菜が対象なので、旅行、外食の自粛ムードの影響は少ない。逆に、全国的にみると、その購入額は微増傾向を示した。微増とはいえ、全国の「ぎょうざ」購入額は、長期低落傾向にあったことを考えると興味深い。大震災と原発事故は、「ぎょうざ」の消費に悪影響をあたえるどころか、むしろプラスの方向に作用したようだ。外食は控えるものの、電力不足により家庭内で調理を省く惣菜の購入機会は増えたのであろう。全国では微増になったが、これとは逆に大きく減らした都市がある。宇都宮と浜松である。両都市とも、名だたる餃子の町である。同じく惣菜として餃子を求めるなら、餃子店の餃子が身近にある。放射能汚染を警戒するならば、生産者の顔が見える、より安心・安全な地元の餃子がチョイスされることは相当程度増えることになる。餃子店の餃子は、家計調査の「ぎょうざ」にカウントされない。それは、「外食」の項目に属する。餃子店の餃子が選ばれれば、「ぎょうざ」は相対的に落ち込む。宇都宮と浜松が、全国の傾向に反して、「ぎょうざ」購入額を大幅に減らしたのは、この二つの都市が群を抜く餃子の町であったればこそなのだ。
 
同じく、「ぎょうざ」購入額を減らした宇都宮と浜松だが、その落ち込み具合には大きな差があった。
 
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宇都宮の「ぎょうざ」購入額は前年の49.8%だった。全国的には微増だったにも関わらず。宇都宮では半減したのである。浜松は、宇都宮に比べれば減少額は軽微だった。それでも前年比92.1%と、浜松が家計調査に登場して以来、初めてのマイナスである。
 
餃子の町として、同じく「ぎょうざ」購入額を減らした宇都宮と浜松だが、その金額には大きな差がでた。その理由の一つに、すでに餃子の町としては成熟期に入っている宇都宮と、いまだ成長期にある浜松という違いも原因だろう。浜松が餃子の町として売り出す初期には、浜松餃子だけでなく餃子一般にも注目が集まり、「ぎょうざ」購入額も押し上げる。宇都宮も、かつてこの道を歩んできた。このことが、浜松の減少額を少なくしたであろうことは容易に想像がつく。それでも、かたや半減、かたや一割以下という差は大きすぎる。同じ餃子の町であっても、宇都宮と浜松では餃子事情が違う。その最大の違いが、餃子と市民の距離である。宇都宮では、1958年の宇都宮みんみんが誕生しているが、当初は「餃子と老酒の店」だった。一方、浜松では石松が1953年に開店しているが、みんみん同様、酒のつまみとしての餃子という位置づけだった。石松は、その後もその位置づけのまま歴史を刻んだが、みんみんは1960年には酒類がメニューからはずされ、名実ともに餃子専門店になった。その背景には、学校帰りの高校生のおやつとして餃子が食べられるという現象が起きていた。この風習が、やがては宇都宮全体に餃子を浸透させ、餃子店が市内に点在、定着していく道を切り開いた。宇都宮のそれぞれの地域に餃子店が存在することになり、宇都宮市民と餃子の距離は心理的にも物理的にも近しい関係になっている。このため、なにか事があると惣菜としての「ぎょうざ」から宇都宮餃子への移行が行われ、それが比較的長く続く傾向がある。あの中国農薬餃子の時も、全国的には約1年で終息したが、宇都宮では2年かかってしまったことは、このブログでもすでに紹介したとおりである。浜松においては、宇都宮のように地域ちいきに餃子店が存在するようにはなっていない。5割以上と1割以下の差は、宇都宮と浜松の餃子事情の違いが生み出したのである

家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松) 宇都宮と浜松の和解

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家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松)
 
宇都宮と浜松の和解
 
東日本大震災と原発事故の影響を多大に受けた宇都宮に対し、距離的にも比較的に軽微だった浜松は、ようやく家計調査の「ぎょうざ」購入額日本一のチャンスを掴みつつあった。20118月までの速報値で、浜松(3014円)は、宇都宮(2603円)を411円のリードを奪った。アクシデントのうえでのリードは、しかし、浜松にとっても胸を張れる状況ではなかった。
 
浜松は、あの「日本一宣言」のときから宇都宮との和解の機会を窺っていたのだが果たせずにいた。それどころか、2010年に浜松で開催した餃子サミットでも、参加を断った宇都宮餃子会に無断で、こっそりと一本釣りをはかった。それがばれると、さも宇都宮側がドタキャンしたかのように説明した。宇都宮と浜松の関係は冷え込んだ。第2回の餃子サミットは、三重県の津で開かれる予定だった。餃子サミットに、餃子の町の先達である宇都宮が不参加であることは、主催する「津ぎょうざ協会」としても避けたいところだが、浜松と絶縁状態にある宇都宮が参加することは困難である。津ぎょうざ協会宇都宮と浜松の和解の道を探った。サミット開催が10月に迫る中、北泰幸会長が宇都宮を訪れ、サミットへの参加を要請した。宇都宮側は、この間の浜松との確執を説明し、現状では参加は困難であることを伝えた。宇都宮と浜松の和解なしに宇都宮のサミット参加はないと認識した北会長は、浜松餃子学会の斎藤公誉会長を伴って再び宇都宮を訪れた。津ぎょうざ協会の仲介によって、ようやく話し合いが始まった。浜松側は「浜松餃子学会がとった手法で、宇都宮餃子会に心労や迷惑をかけた」と陳謝した。独自のアンケートをもとに一方的に日本一を僭称したこと、事前にサミットへの参加を断っていたのにあたかも宇都宮がドタキャンしたかのように振る舞うなどの行動が誤りであったことを認めたのである。宇都宮側もこれを受け入れる姿勢を示し、津餃子サミットへの参加を表明した。津ぎょうざ協会は、大震災や原発事故で、餃子業界に大きな影響が出ており、震災からの復興もサミットの大きなテーマだとして、「今はいがみ合っているばあいではない」と和解が成立したことを喜んだ。
 
2011年の家計調査の「ぎょうざ」購入額は、宇都宮が、東北大震災と原発事故の影響をもろに受け、前年の60%の金額まで落ち込んだ。一方の浜松は、影響を最低限におさえて、前年の90%を確保した。宇都宮の年間購入額は、3,737円にとどまり、4,313円の浜松が念願の日本一になった。しかし、和解の直後ということもあり、「浜松市で消費量がものすごく増えたというよりは、東日本大震災で宇都宮市の消費量が落ちただけ(斎藤浜松餃子学会会長)」と謙虚にコメント、「我々の臨んだ1位奪取の形ではなく、喜ばしいことではない。1日でも早く元の状況に戻っていただきたい」と宇都宮にエールを送った。宇都宮餃子会も「震災の影響もありやむを得ない」とし、「お互いにがんばって食文化を広げて、餃子で日本を元気にしていきたい」とエールを返した。
 
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東日本大震災の影響が続く宇都宮の危機感 ― 家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)

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東日本大震災の影響が続く宇都宮の危機感  ― 家計調査の戦い(宇都宮VS浜松)
 
2012年になっても、宇都宮の、家計調査の「ぎょうざ」の購入額は回復しなかった。1月、2月は、前年の水準にすら達せず、3月になってようやく前年の金額を越えた。だが、これとても、東日本大震災前から見れば半額以下でしかなかった。4月には、またマイナスに戻ってしまった。
 
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浜松も、それほど芳しい状況ではなかった。4月までの数字は前年を下回った。それでも、宇都宮の不調に助けられ、4月末には僅差のリードを奪う(宇都宮1,324円、浜松1,328円)ことに成功した。
 
2011年に、久しぶりの2位転落となった宇都宮は、「東日本大震災の影響によるもので仕方がない」としていたものの、ショックは徐々に広がっていった。テレビ、新聞は、東日本大震災の影響によるものと注釈を付けつつも、浜松が日本一になったことを伝えた。インターネットの世界では、注釈はほとんど無視され「餃子日本一は浜松だった」という表現が席巻した。わずか1年であっても、その影響は大きかった。
 
東日本大震災の影響で、消費が減ったのは「ぎょうざ」だけではない。宇都宮を訪れる観光客も減った。浜松が話題になれば、宇都宮の地位も相対的に低下してしまう。Yahoo!検索(ブログ)で、「宇都宮餃子」と「浜松餃子」をキーワードに、その注目度を比較してみた。2009年までは「宇都宮餃子」が圧倒的だった。「浜松餃子」は、2006年以前は、ほとんど注目されていない。浜松が、自称「日本一」を宣言した2007年には、一挙に注目度を上げ、一時的には「宇都宮餃子」を上回った。2009年に中国農薬餃子事件の影響で、浜松が宇都宮に50円差まで迫ると、「浜松餃子」は上昇気流を掴む。2010には、「餃子サミット」の話題で互角になり、2012年には、2011年の家計調査でトップになったことをうけて、ここでも逆転を果たした。注目度は、当然購入意欲とリンクする。浜松餃子に注目が集まれば、浜松餃子が選ばれる率が高くなり、宇都宮餃子はそのあおりを受ける。
 
宇都宮は、楽観していたかもしれない。中国農薬餃子事件のときにも、浜松に猛追されたが、最後はトップを死守した。影響を脱した2010年は、大差をつけ楽勝だった。「今度も大丈夫」と心のどこかで思い込んでいた。大丈夫ではなかった。震源地に近い宇都宮と、売出し中で勢いのある浜松の違いが、期待を叩き潰した。そして、2012年になっても、この構図はかわっていなかった。4月で逆転された宇都宮は56月には差を広げられた。「このままでは、2年連続2位になってしまう、危機感が広がった。4月には、「日本一陥落は、関連産業や飲料消費、観光産業にも影響を及ぼしかねない」と、宇都宮市の商工・観光関係者が「宇都宮市餃子消費量日本一奪還推進委員会」を結成した。事実上の決起集会になる「キックオフパーティー」が525日に開催され、これには佐藤栄一市長をはじめ120名が出席する盛況ぶりだった。続いて、63日には「一日だけの餃子祭り」を開催、この効果のせいか、6月分は前年比117%の購入額と復調を予感させた。
 
 

連敗した宇都宮 ―「日本一奪還計画」の効果は? (家計調査「ぎょうざ」の戦い・宇都宮VS浜松)

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連敗した宇都宮 ―「日本一奪還計画」の効果は? (家計調査「ぎょうざ」の戦い・宇都宮VS浜松)
 
2012年の前半では、浜松のリードを許した宇都宮は、後半での逆転を狙った。「日本一奪還計画」にも熱が入った。6月には「一日だけの餃子祭り」が急遽開かれた。応援歌「ギョ!ギョ!ギョ!ギョーザ!」も作られ、栃木県内観光地や日本バスケットボールリーグの「リンクス栃木ブレックス」との相互支援もはかられた。地元紙の下野新聞社のWEBサイト内には、「宇都宮餃子日本一奪還計画~為すべきことは、ただひとつ。食って、食って、食いまくれ!」というページが設けられた。
 
この効果からか、7月には前年比235%の購入額を記録、その後も前年比ではプラスを維持し、東日本大震災の影響から順調に抜け出つつあるかに見えたのだが、実際は、震災前の2010年比ではマイナスのまま(71.2%)であった。一方の、浜松は、前年比でプラスだっただけでなく、2010年比でも98.2%まで回復した。宇都宮は、最後まで浜松に追いつけず、初めての2年連続2位に甘んじた。
 
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20125月から開始された「日本一奪還計画」には二つの側面がある。一つはもちろん総務庁の家計調査の「ぎょうざ」の項目の日本一奪還であり、もう一つは東日本大震災で観光客などが減少したため、その影響に悩む宇都宮餃子そのものへのテコ入れである。宇都宮が餃子の街として売り出したきっかけは、市職員による「ぎょうざ」消費量日本一の発見であり、それはその後も餃子の街宇都宮の象徴だった。だが、「ぎょうざ」は、スーパーや惣菜店などの調理済み餃子が対象で、餃子店で食べたり持ち帰ったりする宇都宮餃子とは、競合関係にもある。「日本一奪還計画」は、競合関係にある「ぎょうざ」と「宇都宮餃子」をともに押し上げようという、困難な両面作戦にならざるを得ない。
 
「日本一奪還計画」のスタート時、為すべきことは「いつも通り宇都宮餃子を食べていればいいだけです。そして、宇都宮市に限らず、栃木県内、県外にも宇都宮餃子の良さを言い続け」ることで、そうすれば、おのずと結果は見えてくると訴えている(下野新聞社WEBサイト・天狗ブログ)。宇都宮餃子の消費量の拡大に力点が置かれており、「ぎょうざ」の消費拡大には直接的な言及はなされていない。其の後、スーパーのチルド餃子と惣菜のコーナーに「日本一奪還応援団」の幟が置かれたり、応援歌が店内に流されたりするようになっている。
 
実を言えば、家計調査の「ぎょうざ」購入額を押し上げる方法は難しい。家計調査における宇都宮市の標本は96世帯である。これに直接働きかけることは、統計の中立性・信頼性を損ねる行為で禁止されているし、そもそも、標本の96世帯は公表されている訳ではない。一般的に「ぎょうざ」を食べようとPRすること自体に問題はないが、それでうまくいくかどうかは疑問である。標本の人は、こうした呼びかけに、素直に応じるとは考えにくい。恣意的に「ぎょうざ」の購入を増やすことは、統計の結果を歪めることになる。それをあえてする人がいるのだろうか。むしろ、逆に心理的ブレーキがかかる恐れもある。「日本一奪還」の呼びかけは、プラスに働くとは限らず、むしろマイナスに働くこともあるのではないだろうか。
 
このプロジェクトがマスコミに取り上げられるなどの効果によって、観光客などが増えることが期待できる。宇都宮の市外については、これでよい市内においても、宇都宮餃子への関心が高まり、その消費拡大につながる効果は期待できる。だが、「ぎょうざ」消費額については、効果のほどは疑わしい。確かに、5月のプロジェクト開始以降の6月からの宇都宮の数字はプラス傾向に転換した。しかし、それは自律的な回復かもしれない。あの、中国農薬餃子事件のときも、その影響から脱するのに、宇都宮は2年かかった。中国農薬餃子事件の影響は、宇都宮と浜松にほぼ均等だったため、いずれの年もなんとか浜松を抑えることができた。東日本大震災と原発事故の影響も、2年目の後半になって、ようやく回復の兆しが見えてきた。前回と同じような経過を辿っているようである。「日本一奪還計画」が効果を上げてきているとは断言できない。今回は、地理的なことがあり、宇都宮にその影響が強く働いたこともあって、浜松に首位を奪われたといってよいだろう。宇都宮が、日本一を奪い返すことができるかどうかは、自律的な回復がさらに進むかどうかにかかっている。あるいは、事故の過酷さゆえに、さらに回復が遅れ、宇都宮の苦戦は続くかもしれない。

3年目も接戦?(遅れる宇都宮の回復と浜松の足踏み)

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家計調査「ぎょうざ」の戦い(宇都宮VS浜松)
3年目も接戦?(遅れる宇都宮の回復と浜松の足踏み)
 
宇都宮の、家計調査「ぎょうざ」の購入額は、2013年になっても低迷を脱しきれないスタートだった。1月、2月は、東日本大震災前の2010年比だけでなく、前年比でもマイナスだった。宇都宮が繰り広げた「日本一奪還運動」の成果なのか、あるいは自律的回復なのかはともかく、2012年の後半は回復基調だった宇都宮だったのだが、再び落ち込んでしまったのである。浜松は、3月まで好調をキープした。宇都宮とは対照的に、2010年比、前年比ともにプラスを記録した。この結果、浜松は、3月までの累計で1,285円となり、宇都宮(962円)から328円のリードを奪った。2012年の3月末では、宇都宮に26円の僅差だったがリードを奪われていたのだから、上々のスタートに見えた。
 
4月になると、浜松が変調をきたす。前年比で10か月間プラスを続けていたのに、ここにきてマイナスになってしまった。宇都宮は、3月以降、2010年比では相変わらずマイナス状態であるものの、前年比でプラスに転じ、足踏みしている浜松に追いすがった。とくに、4月には昨年の7月以来久々となる500円台を記録している。3月と5月が、前年比からはプラスになったものの、前年までの落ち込みが大きい分だけ、金額的には少なく、浜松に及ばなかったため、追いつくことはできなかったものの、171円差に迫ったのである。
 
浜松の2012年は、前年比108.3%だった。2013年の5月時点では、105.7%と、増加率が伸び悩んでいる。宇都宮は、それぞれ116.8%、122.3%と、浜松とは逆の傾向を見せている。浜松の場合、東日本大震災前の2010年は、4,755円だった。2012年には4,670円とほぼ回復し切ったことになる。これからは、実績の回復でなく、新たな消費拡大で積み上げていかなければならない。だが、宇都宮の場合、2010年の実績は6,134円である。2012年は4,365円でしかなく、まだまだ回復の途上にある。宇都宮の伸び代には余裕がある。あの中国農薬餃子事件の影響を脱するのに2年を費やした。大震災からは、すでに2年が過ぎた。回復基調が続く可能性は高く、そうであれば、今年中の日本一奪還の可能性も高い。宇都宮と浜松の地力の差は、まだまだ大きいのだから。
 
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宇都宮の「ぎょうざ」購入額が、回復基調にあることは間違いない。「日本一奪還運動」が、それを速めたのかどうか、微妙であろう。速めたということもあり得るが、さほどの影響を与えていない可能性もある。悪影響を与えたかもしれないという可能性さえあることは、このブログでも指摘した。
 
家計調査の「ぎょうざ」の購入額日本一というタイトルが、宇都宮にとって重要であること、そのとおりである。宇都宮が餃子の街であると、全国的に認識された原点は、そこにあった。政府の統計という裏づけは、誰にも受け入れやすく、餃子の街・宇都宮の象徴にさえなっていたことも事実である。失って初めて、それが大事であったことを知り、残念に思うことも理解できる。だが、家計調査の「ぎょうざ」購入額日本一が、そのまま餃子日本一であるわけではない。それでも、浜松が日本一だといわれてしまう。餃子全体の消費量などの直接的統計が存在しない以上、仕方がないことかもしれないけれども、「ぎょうざ」と「餃子」がごちゃごちゃになってしまっている。
 
宇都宮日本一奪還計画のスタートにあたり、「宮の天狗」は、「昨年を大きく割り込んだ宇都宮市の餃子消費量。果たして震災だけが理由でしょうか?そこには、地域の食や地域社会への愛着の低さ、理解度の無さ、身近になりすぎた宇都宮餃子ブランドへの慢心など、宇都宮市民のソウルフード『宇都宮餃子』への関心の低さもひとつの原因だと考えられます」と書いている(2012524日・天狗ブログ)。だが、消費量が割り込んだのは、家計調査の「ぎょうざ」であり、宇都宮餃子そのものではない。惣菜としての「ぎょうざ」と餃子店の「餃子」の購入額は、競合関係にある。宇都宮の場合、餃子全体に消費する金額が抜きんでて多いので、「ぎょうざ」の消費額も多いというわけである。宇都宮餃子に関心が強まれば、それまで「ぎょうざ」を食べていた人も、「宇都宮餃子」を選択するようになる。宇都宮餃子への関心の低さが、「ぎょうざ」購入量の割り込みにつながるわけではない。だから、日本一奪還の目標が、家計調査の「ぎょうざ」であれば、その手段が「いつもの通り宇都宮餃子を食べていればいい」(同上)ことにはならない。それは、宇都宮餃子の消費拡大にはつながるかもしれないが、宇都宮の「ぎょうざ」消費量には直接結びつかない。
 
そんなことは、天狗も充分わかっていたのだろう。真に恐れたのは宇都宮餃子の地盤沈下であり、家計調査の結果は、それを促進してしまう恐れがあるからの憂慮だったろう。天狗は、基本的に競合する二兎を追わざるを得なかったのである。だから、家計調査の結果にプラスに働いたのか、逆にマイナスに働いたのかさえ判然としない結果になってしまった。天狗が「地域の食や地域社会への愛着の低さ、理解度の無さ、身近になりすぎた宇都宮餃子ブランドへの慢心など、宇都宮市民のソウルフード『宇都宮餃子』への関心の低さ」を憂い、宇都宮がいつまでも餃子の街であり続けることを願うなら、そのための運動に専念したほうが良い。家計調査の日本一は、自律的回復にゆだねておけばいいのである。そうすれば、日本一の餃子の街・宇都宮は、自然と、家計調査の「ぎょうざ」消費量日本一も取り戻すことができるだろう。

餃子の街の駅弁 1 駅弁発祥は宇都宮駅?

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餃子の街の駅弁
1       駅弁発祥は宇都宮駅?
 
今日(716日)は、駅弁の日である。なぜ、駅弁の日かと言うと、この日、はじめての駅弁が宇都宮駅で誕生したからだという。
 
明治18年(1885年)716日、大宮と宇都宮が鉄道でつながった。日本で初めての鉄道は、新橋と横浜の間だが、その開通から僅か13年後だった。駅が設置されたのは、大宮、蓮田、久喜、栗橋、古河、小山、石橋、宇都宮の8駅、約79キロである。今では、これらの駅の間に多くに駅が設置され、18駅に増えている。また、発着の列車も、当時は1日に上下それぞれ2本だった。所要時間も、4時間10分から20分かかっていたらしい。乗降客は、160人程度だったのに、駅員の数は10人ぐらい居たという。鉄道事業は、意外に人手が掛かるらしい。
 
今では、宇都宮駅からの乗客は、135,018人(2012年)で、単純に考えれば7万人が乗降していることになる。JR東日本内では121番目でしかないが、東京都と、それに近接する神奈川、埼玉、千葉を除けば、宇都宮より乗降客が多いのは、仙台と新潟だけである。
 
宇都宮駅は、駅弁発祥の地とされている。宇都宮駅の開業日に、駅前の「白木屋旅館」が販売したというのである。駅弁といっても、定番の幕の内弁当などでなく、握り飯。梅干し入りの握り飯にゴマをまぶしたものが2個、タクアンを添えて竹の皮で包んであったとされる。
 
駅弁発祥の駅については、異説がある。東海道本線大阪(梅田)駅で、明治101877)年に販売が開始されたという記録が、第二次大戦前の旅行雑誌などに残っている。しかし、弁当の中身や、販売されたという根拠は示されていない。西南戦争の際の官軍の兵士とためともいわれ、その後も継続して販売されたわけではないとされる。同じ年に、神戸駅で販売されたという記述が、昭和321877)年の「神戸駅史」にあるが、大阪同様、その根拠や弁当の中身は示されていない。この他にも東北本線上野駅(明治16年)、東北本線小山駅(明治18年)、高崎線熊谷駅(明治16年)、北陸本線敦賀駅(明治17年)などの説があるが、いずれも決め手を欠いている。
 
宇都宮駅の場合は、昭和331958)年6月に、駅弁業者などで構成される「社団法人国鉄構内営業中央会」が発行した「会員の家業とその沿革」に記述されている。ただ、同会が保持していた原資料が、空襲で焼失したため、白木屋からの聞き取りが掲載された書物の記述の引用だという。以前は定説と認められていたが、疑問をはさむ余地もあるとされる。国鉄構内営業中央会の後身である「日本鉄道構内営業中央会」では、駅弁第一号の「通説」として宇都宮駅説を挙げ、梅田駅、神戸駅、上野駅説を合わせて紹介している。宇都宮駅発祥説が100%確実というわけにはいかないが、最有力であることは間違いないようだ。

餃子の街の駅弁当 2 復刻されたおにぎり駅弁

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餃子の街の駅弁当
2 復刻されたおにぎり駅弁
 
平成17年(2005)に宇都宮駅は開業120年をむかえた。駅弁の歴史も120年目ということになる。これを記念して、駅弁第1号の復刻版がお目見えした。120年前の販売元である白木屋旅館はすでに廃業しているので、宇都宮駅の駅弁店・松廼家が販売した。タクワンを添えたおにぎり2個と、120年前と同じだが、値段ばかりは5銭とはいかず、300円になっている。前回に米の価格から算出した386円よりは多少安いが、ほぼ同じような設定である。
 
掛紙(駅弁の包装紙)をみると、大きく「~駅弁発祥地~ 宇都宮」と題し、「明治187月、宇都宮駅開業と同時に、ごま塩おにぎり2個を竹皮で包み5銭で売り出したのが、駅弁の始まりと言われています」と由来を説明している。加えて、駅弁販売のユニホームにも触れている。上着は紺無地の法被で、襟の左に駅名、右に販売店の屋号が記されていた板は紺の股引に腹掛け、黒羅紗の帽子と、かなり凝っている。今では、ホームでの立ち売りはほとんど見られなくなってしまったが、ホームに停車中の蒸気機関車の脇で、ユニホームできめた販売員が駅弁を売る姿を想像すると、なにやら楽しくなってくる。
 
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これより前、平成14年(2002)から「大人の休日汽車瓣当」が、やはり松廼家から販売されている。容器の真ん中には、2個のおにぎりが竹皮に包まれている。掛紙には「駅弁発祥地より」と但し書きにあるように、元祖駅弁を意識してのものだろう。復刻版の掛紙は、これをアレンジしたようだ。おにぎりは、ごまと梅、タクアンでは匂ってしまうせいか、子茄子のたまり漬けに替えてある。さすがに、これだけでは寂しすぎるので、煮物(人参・里いも・こんにゃく・牛蒡・たけのこ)、鶏牛蒡の肉だんご、ひなかつ(栃木県特産ひな鶏のカツ)を左右に配してある。元祖と比べると、かなりの豪華版である。値段も、300円とはいかず、800円に設定されている。
 
 
 
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