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宇都宮みんみんのパッケージの謎

宇都宮みんみんのパッケージの謎
 
こんなブログをやっていると、とこどき質問されることがある。そんな質問の一つに答えようと思う。宇都宮みんみんのパッケージに「昭和三十三年玄舗宮島町」とあるが、この意味がよくわからないという。実をいうと、筆者にもわからない。わからないが、「たぶん、こうではないか」と思っていることはある。みんみんが、パッケージを新しくしてまもなく、この耳慣れない表記を目にして、意味を考えてみた。それを、そのまま掲載する。断っておくが、これが正解だということではない。勝手な推量に過ぎない。正解は、みんみんに聞くしかない。もし、よろしければ公式な説明をお願いしたいと思うのだが。
 
 
「昭和三十三年玄舗宮島町」の意味
 
宇都宮みんみんのおみやげ用の箱に、ちょっと珍しい用語がつかわれている。「宇都宮みんみん」の下に「昭和三十三年玄舗宮島町」とある。
 
昭和33年は宇都宮みんみんの創業の年であり、宮島町は、その場所である。宇都宮みんみんの本店の前の通りを宮島町通と言う。今は、この付近の住所表示は馬場通になってしまっているが、前は宮島町だった。
 
耳慣れないのは「玄舗」である。辞書を調べても、載っていない。どうも、造語らしい。造語だとしても、意味はあるはずだが、宇都宮みんみんはそれを公表していないようだ。造語だとすれば、「玄」と「舗」の組み合わせであるので、それぞれの意味を探れば、自ずと玄舗の意味がわかるかもしれない。
 
舗は、「店」の意味で問題ないだろう。「店舗」や「老舗(老舗)」の舗である。問題は玄の方だ。もっとも一般的な意味としては、「黒」を意味している。「黒い店舗」では意味がない。そもそも宇都宮みんみんの店舗には、黒のイメージがない。
 
漢字の国、中国では、玄は天の色だと言う。夜の空の果てしない闇が玄である。「天地玄黄」というように、黒い天に対する地は黄色で、これは、広大な黄土大地が広がる中国ならではの表現だろう。天は黒いと言うが、しかし、ただ黒いのではない。天(宇宙)は限りない奥深さを持っている。容易に窺い知ることのできない深い闇のつくる黒、これが玄である。
 
中国の思想家である老子は「玄牝の門、是を天地の根と謂う」として、玄を天地万物の根源であるとした。そこから、玄は「奥深くて暗い」、「深遠なおもむき」という意味も持つようになる。
 
玄と言う字で、思い出す熟語と言えば、玄関、玄妙、玄人といったところか。玄関は、住居等の建物の入り口であるが、本来は玄妙な道に入る入口のことである。玄妙とは、「道理や技芸が奥深く微妙なこと」であるから、転じて、奥深くて暗い建物の入口を玄関と称したのである。玄人(くろうと)は、技芸などが玄妙な域に達した人言い、未だその域に達していない人は白人(素人・しろうと)である。
 
さて、玄舗だが、こうして玄についてみてみると、うっすらと意味が見えてきそうだ。それは、まず、現在9店舗ある宇都宮みんみんの最初の店舗ということだろう。だが、それだけにとどまらない。昭和33年に開店したみんみんは、宇都宮餃子の草分けになった。宇都宮には、これより前にも餃子店は存在した。蘭鈴、忠治などがそれで、宇都宮の餃子の誕生に大きな役割を果たしたが、残念ながらいずれも今はない。また、その餃子は、宇都宮餃子の特徴から離れている。蘭鈴、忠治の餃子と、宇都宮餃子には、断裂がある。今の宇都宮餃子につながる一番古い餃子店は昭和33年に宮島町で開店したみんみんである。そこから、宇都宮餃子は始まり、発展した。
 
宇都宮みんみん、そして宇都宮餃子の入り口となった店、それが玄舗の意味であろう。
 
さらに言えば、宇都宮みんみんは、餃子専門店である。しかも、高い評価を獲得している餃子店と言っても、どこからも異論はでないだろう。言い換えれば、「玄妙な餃子を提供する餃子舗」として、宇都宮みんみんはあるとも言える。このことのひそかな矜持を、玄舗に込めたのではないか。これは、深読みに過ぎるだろうか。                    (2009.10.4)

東日本大震災の影響で、宇都宮が16年ぶりの首位脱落

東日本大震災の影響で、宇都宮が16年ぶりの首位脱落(総務庁家計調査「ぎょうざ」)
 
総務庁家計調査による「ぎょうざ」の購入額で、過去15年回トップだった宇都宮がついに陥落、代わって浜松が初めて一位になった。宇都宮が、3,737円と前年から2,897円も減らしたのに対し、浜松は4313円と441円の微減にとどまったため。宿願の日本一になった浜松は、「自分たちが求めてきた一位奪取の形でない」(浜松餃子学会・斎藤会長)と複雑な表情だったという。
 
 
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宇都宮の「ぎょうざ」購入額が、これほど落ち込んだ理由が、昨年3月の東日本大震災であることは疑いない。しかし、全国的にみると、東日本大震災によって、「ぎょうざ」購入額は、必ずしも落ち込んではいない。全国平均では、2010年の2,119円から2,181円と若干ではあるが増えている。宇都宮の隣の前橋(群馬県)でも前年より131円増だった。被災地は、当然ながら減少したわけだが、その額は意外に少ない。仙台は、591円減、福島は389円である。もともとの金額が多いとはいえ、宇都宮の2,397円減は異常と言わなければならない。震災後の回復状況でも同じことが言える。仙台では、6月には前年を上回り始め、福島でも9月には回復した。宇都宮は、12月になっても、前年の水準に達していない。
 
初めて1位を獲得した浜松だが、「ぎょうざ」購入額を増やしたわけではない。前年の4,755円から442円も減らしている。それでも1位になれたのは、宇都宮の落ち込みがそれほど大きかったということである。2008年に、家計調査の集計対象になって以来、順調に購入額を増やしてきたのだが、ここにきて初めて減少に転じたわけだ。これが、一時的に過ぎず、再び上昇気流に乗れるのか、停滞してしまうのか、気になるところである。
 
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宇都宮・浜松・京都が「ぎょうざ」購入額を減らした訳

宇都宮・浜松・京都が「ぎょうざ」購入額を減らした訳
――餃子の街だからこそ広がる影響――
 
東日本大震災で、総務庁・家計調査「ぎょうざ」の購入金額は大変動をきたした。その結果、購入金額を大幅に減らした(対前年比-39.1%)宇都宮は、小幅の減少(対前年比-9.3%)にとどまった浜松にトップの座を譲り渡した。宇都宮は、過去15年間、「ぎょうざ」購入額日本一を守ってきていた。浜松は、家計調査に登場して以来、3位以下を大きく引き離して2位を占めてきている。「ぎょうざ」購入額の2トップを形成してきた都市である。この2強が、東日本大震災の影響で購入額を減らしたのに対し、全国平均では、対前年比+.9%と微増ながら増加している。なぜだろうか。
 
もう少し家計調査の結果を検討してみると、前年の5位までの都市の中で、「ぎょうざ」購入額を増やしたのは、5位の宮崎だけである。浜松が家計調査に登場する以前の2位は京都であることが多かった。前年の3位も京都である。京都もまた対前年比で-1.3%3位に留まることができた。4位だった福井は-13.6%で、10位まで後退した。5位だった宮崎はわずかながらもプラスで4位になった。5位になったのは、2割以上も増やした前年ランク外の静岡だった。
 
家計調査の「ぎょうざ」の購入額のここ10年間の推移でみると、宇都宮、浜松、京都、宮崎、静岡がベスト5といってよい。このうち、ベスト3がマイナスで、4位以降でプラスになっている訳だ。加えて言えば、全国平均もプラスである。大震災により減らした3都市と、増やしたそれ以外の都市となにが違うのか。
 
考えられる原因に、大震災の直接の被害の程度が考えられる。確かに、被害の大きかった東北3都市は、大震災の直後には大幅に減らした。しかし、数か月後には前年以上に購入されるようになっている。宇都宮は、東北3都市から比べれば被害は軽かったのに、いまだ回復していない。浜松と京都には直接的な被害がなかったのに、減少してしまった。大震災以外の理由があったと考えるべきだろう。
 
宇都宮、浜松、京都の共通点はなにか。宇都宮と浜松はいうまでもなく餃子店が他のどの都市よりもずば抜けて多い。京都は、餃子店こそ少ないが、「餃子の王将」の店舗数がきわめて多い。家計調査の「ぎょうざ」は、惣菜店などで販売されている餃子の購入額の集計である。餃子店の餃子は、家計調査の「ぎょうざ」でなく外食費にカウントされる。宇都宮、浜松、京都では、「ぎょうざ」がなんらかの理由で入手しにくい場合でも、代替の餃子が手に入る。「ぎょうざ」から餃子へのシフト転換が容易である。そして、いったんシフトしてしまえば、その状況がもとに戻るには相当な時間が必要になる。つまり、「ぎょうざ」の購入額が回復するのが、他の都市よりも遅れる構造になっている。そして、それは餃子店が多い都市ほど影響も大きくなる。図は、2011年に宇都宮、浜松、京都の購入額がどれほど減ったかをみるとそれは明白であろう。宇都宮は、大震災が起こった3月以降、プラスの月はなく、また減らした金額も大きい。浜松と京都は、プラスの月もあるが、基本マイナス基調となっている。それでも、宇都宮に比べれば、減少金額は少ない。全国平均は、3都市と逆の動きをしている。金額こそ少ないものの、大震災の影響が全体としてはプラス方向に表れているのだ。餃子が定着し、餃子店が地域に根を下していればいるほど、そこの「ぎょうざ」購入金額は、アクシデントによって減少の幅も大きく、期間も長くなる。
 
 
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餃子専門店の密度が高い宇都宮においては、この傾向がより顕著になる。今度の大震災より以前、宇都宮が「ぎょうざ」購入額を長期間にわたって減らしたことがある。2008年1月の中国製農薬餃子事件の時で、宇都宮は大きく金額を減らしたばかりでなく、その時期も長かった。全国的には1年後にはほぼ終息したのに、宇都宮はさらに1年の時間が必要だった。
 
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浜松の場合、中国製農薬餃子事件のときは、その年に家計調査での単独集計が始まったので、その前年との比較はできない。しかし、今回の場合でみれば、宇都宮に比べて比較的軽微であることがわかる。しかも、浜松は大震災の直接的被害は蒙っていない。影響が地域で片寄らない中国製農薬餃子事件のときは、寸前まで宇都宮を追い詰めたが、1位奪取はならなかった。直接的な被害の差が大きかった大震災では、浜松の1位は当然の結果だったとのかもしれない。
 
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「サメコ」と「ヤキウリ」

「サメコ」と「ヤキウリ」
 
読み違いということがある。「焼売(しゅうまい)」をそのまま「やきうり」と読んだりすることだ。焼売で一番知られているのは、横浜崎陽軒のそれだろう。だが、崎陽軒のパッケージには「シウマイ」と記されているだけで、商品の漢字表記はない。シウマイは知っていても、焼売は知らない人であれば、それをやきうりと読むのは素直なことだ。焼売の兄弟のような餃子にも似たようなことがある。
 
直木賞作家の景山民雄のエッセー本「世間はスラップスティック」に、「だから『走れメロスは恥ずかしい』という一文がある。恥ずかしい話を題材にしているのだが、その一例として餃子がでてくる。
 
岐阜の山の中から上京したばかりの男がね…中略…高円寺あたりに下宿して近所のラーメン屋で三度の食事のほとんどを済ませてたんだそうだけど、壁に貼ってある品書きの中で、どうしても理解できないのがあったわけですよ。“餃子”という文字だったんだけどね。つまり、彼が東京に来るまで住んでいた所には“餃子”が存在しなかった訳だ。約2週間、彼は悩んだというね。しかし、そのカルチャーショックですらある食べ物を口にしようと、ついに或る夜決意して、ラーメン屋のカウンターにつくやいなや言ったのだそうだ。
「あの、サメコ定食ひとつ」                    (新潮社版)
 
景山民雄は、昭和22年の生まれである。餃子をサメコと読んだ男もそれほど年齢が離れていないと思われる。だとすれば、彼が上京したのは昭和40年前後から大きく離れてはいない筈だ。景山民雄は東京出身なので、餃子はぎょうざと読むことを知っていたのだろう。この頃には、東京では餃子は普通に食べられていたことがわかる。同時に、日本全国に餃子が広まり、知らぬ人がいなくなるには、もう少し時間が必要だったのかもしれない。
 
「餃子」を「ぎょうざ」と読むには、餃子という食べ物の存在を知り、しかも餃子と書くということを知らなければならない。知らなければ、餃子を餃子と読むのは無理だろう。餃子は、中国では「ちゃおず」であり、「ぎょうざ」という読みは中国でも山東省あたりの読み方らしい。第一、「餃」という字が、日本にはなかっただろう。「餃子=ぎょうざ」と覚えることからはじめるしかない。読めなくて当然なのだ。
 
人は、自分の知らない漢字を読むとき、知っている字の類推で読むことが多い。また、それで読めることもままある。「餃」を読むなら旁の「交」に注目して、「こう」と読んでみても、この場合はそもそも当て字なのでうまくいかない。それに「こうし」や「こうこ」では意味をなさない。そこで、次に「餃」と似た字を探すのだが、すぐ思いつくのは「鮫」だろう。こうして、「サメコ」が登場してしまう。
 
「餃子」を「サメコ」と読む人は、意外に多いらしい。そこから出発して、「ぎょうざは、鮫の子供と形が似ている。ぎょうざを、餃子と書くのは鮫子から変化した」と解説した人もいる。子供たちに「ぎょうざはどうして餃子と書くのか」と聞かれて、窮しての回答だったようだが、その人が某餃子店の店主だったので、余計に驚いた。本人はまじめな口調だったが、本心は冗談だったのかもしれない。その子供は感心してうなずいていた。彼らは、いつ、その知識が誤りであることに気付いたのであろうか、いまでも心配している。

「シンフー」の閉店

「シンフー」の閉店
 
宇都宮餃子の有力店であった「シンフー」が、この229日で閉店した。シンフーは、宇都宮餃子が全国に認知された1993年以降に登場した餃子店の一つで、1997年の創業。豊富なメニューを作り上げ、大阪などにも出店するなど、意欲的な餃子店だった。閉店の理由は、明らかにされていない。
 
東日本大震災は、宇都宮餃子に多大な影響を与えた。長年守り続けた家計調査の「ぎょうざ」購入額日本一の座を滑り落ちた。この「ぎょうざ」購入額は、スーパーや惣菜店で販売されている餃子についてであり、餃子専門店の売り上げとは直接関係がない。宇都宮餃子にとって、もっとも深刻だったのは、餃子店の売り上げも大きく減少したということである。その後、徐々に回復はしているものの、震災前の水準には達していないといわれる。宇都宮への観光客の減少が大きく響いていると思われる。首都圏からの観光客もそうだが、東北からはさらに落ち込んだであろう。
 
宇都宮餃子が有名になる以前は、宇都宮の餃子店は地元の消費者によって支えられていた。宇都宮餃子が有名になるにつれ、多くの餃子店が営業を始めたが、これらの餃子店は、観光客やビジネスで宇都宮に来られた方がターゲットの中心である。観光客の減少は、餃子店の営業に大きく影響してしまう体質になっている。
 
しかも、この売り上げの減少は、すべての宇都宮餃子店で同等であるわけではない。有名店、人気店では減少幅は小さくなり、その分のしわ寄せは、それ以外の餃子店に重くのしかかる。例えば、全体で10%の売る上げ減であったとしても、個々の餃子店では20%、30%減も出てくる。餃子店の経営でも、一定程度の売り上げは、原材料費、光熱費・家賃などの固定経費、人件費を賄うのに必要である。これを超える売り上げがないと、利益が生まれない。20%、30%の売り上げ減は、そのまま利益を減らしてしまう。場合によっては、赤字に落ち込むことになる。
 
シンフーの閉店が、こうした事情によるものかどうかは知らない。しかし、この状況が続けば、閉店に追い込まれる餃子店が今後も出てくるであろうことは確かだ。これを回避するには、個々の餃子店の努力も必要だが、宇都宮餃子全体の売り上げの回復が不可欠である。そのためには、多くの観光客の呼び込みがもっとも有効であることはだれの目にも明らかである。一刻も早く、このための取り組みが強化されることを望みたい。

宇都宮餃子とライバルの軌跡 (1) ファーストフードとの闘い

宇都宮餃子とライバルの軌跡
 
(1)  ファーストフードとの闘い
 
2011年の家計調査における「ぎょうざ(スーパー、惣菜店等の餃子)」で、宇都宮は史上2度目の首位陥落を喫した。東日本大震災の影響を受け、小差ながらも浜松の後塵を拝したわけである。この数年、宇都宮餃子と浜松餃子の対決が面白おかしく取り上げられた。浜松餃子は、宇都宮餃子の最大のライバルとみられている。たしかに、家計調査だけでなく、餃子そのものについて、浜松と宇都宮は地域および全国での定着度は、他のご当地餃子とは比較にならない。このライバル関係は今後も続くであろう。
 
しかし、宇都宮餃子のライバルが、やはり餃子というのはあまりにも単純ではなかろうか。これまでの宇都宮餃子の歴史において、餃子同士でのライバル関係という場面はそれほどない。
 
宇都宮餃子の歴史は、1958年のみんみんの誕生に始まる。はじめは酒のつまみとしての位置だったが、高校生の帰宅時の食べ物として人気を得るようになり、おやつ的なものになっていった。そこで、みんみんは酒類をメニューからとりのぞき、これによって「餃子だけがメニュー」という他地域では見られない独自の餃子文化を築きあげていくことにつながった。餃子は、宇都宮のファーストフードだった。
 
ところが、1970年代になると、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドをはじめと知る本場のファーストフードが日本にも上陸する。それは、たちまち全国に広まった。宇都宮とて例外ではない。宇都宮のファーストフードである餃子は、当然ながら打撃を受けた。
 
そのころ日本の食文化は大きな変貌を遂げつつあった。ファーストフードの登場もそうだが、すかいらーくやロイヤルホストなどのファミレスもこのころから急成長を遂げる。外食の時代がやってきたのだ。みんみんはこの趨勢をみて、方向転換を図る。それまでなかったライスをメニューに取り入れ、餃子ライスを始める。外食に適応した営業形態に切り替えたのである。餃子ライスは、サラリーマンなどに受け入れられた。
 
みんみんの方向転換に助けられたのは、正嗣だった。もし、それがなければ、目と鼻の先に店舗を構え、ともに高校生を主要なターゲットにしていたみんみんと正嗣は、共倒れになっていたかもしれない。みんみんの決断により、正嗣は従来からの営業スタイルを続けることができた。共存の道が開けたのだ。
 
さらにみんみんと正嗣は、外食(家庭外で作られたものを家庭外で食べる)と内食(家庭内で作り家庭内で食べる)との中間形態である中食(家庭外で作り過程で食べる)にも目を付けた。お持ち帰り餃子に力をいれたのである。ファーストフードというライバルの出現を、宇都宮餃子は外食と中食の分野に進出することにより対抗した。結果は、それまで以上に、宇都宮における餃子文化の定着・発展につながった。宇都宮の中心部から、宇都宮全域に餃子店が進出し、やがて、日本一の餃子の町へと成長していく下地が作られた。

宇都宮餃子とライバルの軌跡 (2)宇都宮を破った静岡

宇都宮餃子とライバルの軌跡
 
(2)宇都宮を破った静岡
 
本場ファーストフードとの競争を、宇都宮のファーストフードである餃子は、外食・中食の分野にウィングを伸ばすことによって、さらに発展する糸口をつかんだ。宇都宮市内にくまなく張り巡らされた餃子店のネットワークは、宇都宮市民の餃子好きを加速させた。誰も知らなかったのだが、いつのまにか宇都宮は餃子の町になっていた。
 
1987年、家計調査の項目として「ぎょうざ」が登場した。この場合の「ぎょうざ」は、スーパーなどで惣菜として売られている餃子が対象で、つまり中食に含まれるものである。中食が一般化する中で、分類を細分化する必要から「ぎょうざ」が選ばれたわけで、惣菜としての餃子の位置が重くなっていた結果を示すものだろう。
 
宇都宮が餃子の町であることをはじめて発見したのは、宇都宮市の若手職員だった。彼らは、家計調査における「ぎょうざ」購入額で、調査開始の1987年から宇都宮市がトップを走り続けていることをみつけ、「宇都宮を餃子で売り出す」ことはできないかと考えた。1990年のことである。これに興味を持ったのが、当時、宇都宮市の観光課係長だった沼尾博之だった。沼尾は、こつこつと餃子店を歩き、店主を説得した。はじめは渋っていた店主たちも熱意に打たれ、1993年にようやく宇都宮餃子会が誕生する。
 
町おこしに歩みだした宇都宮餃子会に幸運が訪れる。テレビ東京のスタッフが、宇都宮に取材に来るという情報を沼尾がキャッチした。内容は別件だったのだが、彼は宇都宮餃子をプッシュした。スタッフも興味を持ち、取材に乗り出し、TV放送がはじまった。山田邦子の「おまかせ!山田商会」である。番組は大反響を呼び、レギラーコーナになった。宇都宮餃子が全国で認知された。他のTV局、新聞、雑誌なども、こぞって宇都宮餃子を取り上げ、宇都宮が餃子の町であることが確立した。
 
宇都宮餃子がブームになった背景には、通常食べられている餃子と異なる特徴や独自の餃子文化があるが、家計調査という公的な統計で日本一であることのお墨付きを得ていることが大きい。ところが、この家計調査で宇都宮がトップの位置を滑り落ちるという事態が、ブームのさなかにおきてしまう。1995年のことで、かわってトップに立ったのは静岡だった。マスコミも面白おかしく取り上げ、某TV局は宇都宮餃子会の役員を静岡に引っ張り出したりした。「宇都宮が静岡に負けた」ことが話題になる中、「なぜ、ブームの最中にトップからすべりおちたのか」はだれも説明できなかった。
 
ブームは宇都宮餃子、つまり宇都宮の餃子店の餃子である。家計調査の「ぎょうざ」は、スーパーや惣菜店の餃子が対象であり、餃子店の餃子は含まれない。それは、別項目の外食費にカウントされる。だから、宇都宮のトップ転落は、スーパーや惣菜店の餃子であって、宇都宮餃子の転落を意味してはいない。では、なぜ、宇都宮の「ぎょうざ」購入額が減ったのか。
 
宇都宮餃子がブームになって、多くの人が宇都宮餃子の存在を知った。宇都宮市民ですら、宇都宮が餃子の町であることを意識せずに過ごしていたのである。彼らもまた、多くの人のように、このブームの中で宇都宮餃子を発見した。いままで、「ぎょうざ」を購入していた人も、餃子専門店の餃子を購入した。当然、「ぎょうざ」購入額は減少する。トップ陥落は、宇都宮餃子の弱さではなく、強さの証明だったのである。
 
宇都宮市民の餃子好きは、その後も加速していく。餃子専門店の餃子だけでなく、スーパーや惣菜店の餃子の購入額も増加していった。2位転落の翌年には、再びトップに返り咲き、以後も「ぎょうざ」購入額を増やし、日本一の座を独走する。一方の静岡は、その後の町村合併の影響もあってか、むしろ減少傾向に陥った。宇都宮と静岡のライバル関係はあっけなく終了する。
 
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宇都宮餃子とライバルの軌跡 (3)隠れ餃子の町だった浜松餃子

宇都宮餃子とライバルの軌跡
(3)隠れ餃子の町だった浜松餃子
 
家計調査の「ぎょうざ」購入額で、静岡市にかわって宇都宮市に対抗したのが浜松市だった。静岡は、2007年に4位を記録したのを最後に、トップ5から姿を消している。次の年に、浜松がいきなり2位で登場する。
 
実は、ⅰタウンページで検索すると、各都市の餃子好きの傾向がわかるのではないかと考えたことがある。そこで家計調査の「ぎょうざ」購入金額上位の都市を選び、「餃子」と「餃子店」で検索してみた。2005年のことである。
 
宇都宮が、「餃子店」で153店がヒットし、静岡の62店の倍以上の餃子店が存在するこが明らかになった。餃子店一軒当たりの人口でみてもその差は歴然としている。ついでに、ひそかに宇都宮の本当のライバルではないかと思っていた浜松も加えてみた。すると、宇都宮には及ばないものの、静岡をはるかに超える結果が出た。この数字は、餃子店の数であるので、家計調査の「ぎょうざ」の項目にただちに連動するものではない。それにしても、これほど餃子店が存在する浜松が、なぜ、家計調査に登場していないのか。理由は簡単、家計調査で単独で集計される都市は、都道府県庁と政令指定都市に限られているからである。これに、該当しない市町村は、全体の一部としてしか集計されない。もし、浜松市として集計されれば、当然上位にランクされるであろうし、宇都宮の真のライバルが浜松であることが明白になると考えていた。おりしも、浜松市は、町村合併により政令指定都市の要件を満たすことになり、家計調査に登場する日が近づいていた。
 
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宇都宮餃子とライバルの軌跡 (4)浜松餃子の登場

宇都宮餃子とライバルの軌跡
(4)浜松餃子の登場
 
浜松市は政令指定都市の仲間入りをすることで、2008年から家計調査の単独集計対象になることになった。ⅰタウンページの検索結果からみて、「ぎょうざ」購入額のランクインは確実と見られていた(前回参照)。浜松は、しかし、それを待てなかった。彼らは、独自の調査をもとに、「浜松こそ日本一」と主張し始めた。「市内一世帯当たりの平均年間消費量が1万9400円と、日本一とされる宇都宮市の4710円を上回った」というのである。国の調査による宇都宮市の4710円に対して、浜松市の独自調査による1万9400円という金額はあまりにも多すぎて、それだけでも独自調査の精度を疑わせるのだが、浜松市と「浜松餃子で町おこし」を標榜する浜松餃子学会は、強引に「餃子消費量日本一宣言」を行い、PRに奔走した。(※)
 
浜松餃子学会が「かなり信憑性のあるデータ」と豪語する1万9400円という金額は、2008年の家計調査で実証されるはずだった。しかしその結果は3664円で独自調査の金額の五分の一以下でしかなかった。浜松餃子学会は「こんなに食べているのに、どうして一位じゃないのか」とぼやいた。
 
その後も、宇都宮1位、浜松2位の構図はかわらなかったものの、浜松悲願の瞬間がとういに訪れる。2011年の調査で、ついに宇都宮を上回る金額を記録したのだ。だが、これとて、単純に喜べるものではなかった。東日本大震災の影響であることが誰の目にも明らかだったからだ。
 
これより前、津ぎょうざ協会の仲介により、宇都宮と浜松の和解が実現した。津ぎょうざ協会は、第2回餃子サミットの議長国で、第1回が宇都宮と浜松の対立で、宇都宮の不参加に終わったことを憂慮し、解決を模索した。浜松側の「謝罪」と宇都宮側の「了承」で、第2回餃子サミットには宇都宮餃子会も参加することで事態は決着した。2011年家計調査の結果についての双方のコメントは、したがって穏和なものとなり、宇都宮と浜松が相互にライバルとして認め合ってのエールの交換となった。
 
※ 詳しくは、当ブログ「悪名は無名に勝るのか」を参照

「一日だけの餃子祭り」と宇都宮餃子のジレンマ

「一日だけの餃子祭り」と宇都宮餃子のジレンマ
 
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昨年の家計調査「ぎょうざ」の項目で、史上2回目の2位に甘んじた宇都宮餃子が、首位奪還を目指してイベントを開いた。宇都宮市内の14店舗が結集して開かれた「一日だけの餃子祭り」である。従来から秋に開かれている餃子祭りだが、昨年は東日本大震災からの復興を願って特別に開かれたこの催し、大震災の影響を強く受け、首位陥落の憂き目を見た宇都宮餃子の復活のきっかけになればと今年も開かれた。「秋の餃子祭りは、宇都宮市以外のお客さんが多く、市内の方に食べていただくのは難しい。このお祭りで、市内の方が餃子に目を向けなおしていくきっかけになれば」と主催者の宇都宮餃子会専務理事の平塚さんは、期待を込めていた。しかし、市外を含めて予想以上の来客で、どの店も30分待ちの行列。たくさんの人に来ていただいたのは嬉しいが、宇都宮の人に食べてもらうという主催者の意図はからすると、心配だったようだ。
 
16年ぶりの首位陥落の家計調査の「ぎょうざ」の項目だが、これは餃子店での消費額でなく、スーパーや惣菜店での調理済みの餃子購入額。餃子祭りで、餃子店での集客につながっても、首位奪回には寄与しない。間接的効果を狙うしかないわけだが、これが意外と難しいのだ。
 
「ぎょうざ」の購入額は、全国的には大震災の影響も薄れ、それまでの水準にほぼ戻っている。ところが、宇都宮市の場合、多少は回復したもののその足取りは重く、それが首位陥落の原因になっている。回復のテンポがおくらせているのが、市内にある多くの餃子店である。餃子店の数が多い宇都宮では、惣菜としての餃子の肩代わりが実に簡単だ。餃子の購入先が餃子店であれば、その購入額は「外食費」にカウントされ、「ぎょうざ」にはカウントされない。餃子店の餃子と家計調査の「ぎょうざ」は、競合関係にある。だから、餃子に目をむけてもらい、その結果として「ぎょうざ」の購入額を増やすというのは、決定打にはなりにくい。
 
宇都宮餃子が全国区になったきっかけは、家計調査における「ぎょうざ」購入額が日本一であることが発見されたことにはじまる。以来、宇都宮餃子と「ぎょうざ」購入額日本一の肩書は一心同体のようになっている。競合関係にありながら、ともに日本一を維持するという難しい課題を両立させ、それを16年間に渡って継続させて来た。大震災というアクシデントによって、競合関係がもろに影響した結果、昨年は首位を浜松に譲ってしまった。宇都宮餃子は、これまでよりもさらに困難な両立を目指して、首位奪還を実現させようとしている。

(5)ライバルは別にいる 1) ご当地餃子

(5)ライバルは別にいる 
  1) ご当地餃子
 
宇都宮という地域の食文化であった宇都宮餃子が、全国に名を知られ「宇都宮の餃子」から「宇都宮餃子」に変貌してから久しい。当時は、餃子で町おこしができるなどと考えること自体、笑いの対象でしかなかった。だが、宇都宮餃子の名は全国に轟き、宇都宮が餃子の町であることは常識になったといってよい。餃子を求めて、宇都宮を訪れる観光客も増えた。ビジネスできて、餃子を食べ、お土産を買う姿も日常になった。お中元・お歳暮などの贈り物や手土産に餃子が使われることも普通になった。他のものにすると、「宇都宮餃子のほうが良かった」と言われるほどだった。
 
このころ、宇都宮餃子は、ほぼ一人勝ちの状況だった。黙っていても、マスコミの取材は殺到した。お客さんも増え続け、右肩上がりの進撃が続いた。しかし、そのような状況がいつまでも続くわけはない。「餃子と言えば宇都宮」は定着したが、そうなればもはやマスコミが取り上げる魅力は減少する。かわって登場したのは、全国各地のご当地餃子である。福島(飯坂)餃子、博多の鉄鍋餃子、東京・蒲田の羽根つき餃子などが次々に発掘された。宇都宮餃子は、それらの紹介に際しての脇役の扱いをうけるようになる。浜松餃子の「日本一宣言」も、こうした状況下で大きく取り上げられたのである。従来からのご当地餃子だけでなく、川崎市、津市、裾野市など、独自の餃子を作り出すことによって、町おこしを狙う自治体も現れた。宇都宮餃子の成功が、それを生み出したと言えよう。こうして、餃子と言えば宇都宮だった時代は過ぎ、数多くのライバルが登場した。多くのご当地餃子が登場することにより、消費者の選択は増えたが、その分宇都宮餃子の位置は、相対的に低下せざるを得ない状況に追い込まれている。

ショージ君(東海林さだお)の疑問 「餃子のヒダはなんのため」

ショージ君(東海林さだお)の疑問 「餃子のヒダはなんのため」
 
 
東海林さだおと言えば、漫画家であるだけでなく食通として知られている。食通と言っても、やたら高級なもの(つまり高いもの)に憧れる上昇志向の強いグルメではない。ごく普通の食べ物に惹かれる、庶民派の食通である。東海林さだおと呼ぶより、かれの代表作の主人公であるショージ君と呼ぶとイメージが浮かぶ。
 
で、ショージ君(と呼ばせてもらう)が、週刊朝日のコラム(あれも食いたい これも食いたい)で、「餃子の七不思議」を取り上げている。ショージ君によれば、「餃子のヒダ」が不思議だという。餃子のヒダは何のためにあるかというのである。「一個に七つくらいのヒダをつけているんですが、五つでいいということにしてくれたらどんなにラクができるか」とため息をつく某中華料理店主人の声を紹介し、作るほうは苦労しているのに、食べるほうは気にしてさえいないと憤慨する。
 
ショージ君は、餃子にヒダがついている理由を三つあげる。
1 加熱時の膨張で口があかないように
2 ヒダをつけることで形が湾曲し、鍋に並べやすい
3 ヒダのところにタレを多くからませるため
 
ショージ君は、このいずれも根拠薄弱だという。ヒダのない餃子の店もあるが、そこの餃子だって破けていない。ヒダをつけなくたってそういう形に作れるし、そのほうが時間もかからない。マグロの刺身のようにツルンとしていても充分醤油がからむ。だから、「結局かざりなんです。見映えです」となる。
 
餃子のヒダの存在理由は、日本における餃子事情を見るだけではわからない。日本の餃子と中国の餃子の最大の違いは、その調理法である。中国には焼き餃子はなく、水餃子が普通である。水餃子はお湯で茹でるので、皮の合わせ目がはがれやすい。お湯のなかで、バラバラになる危険性が高い。ヒダは、これを防ぐための補強として作られた。ところが、日本では餃子を茹でるのでなく、焼くことにした。焼くのであれば、ヒダの効用はそれほどなくなる、ショージ君の言うとおりである。
 
だが、中国から日本に餃子を持ち込んだのは、中華料理の職人であるか、中国で餃子の作り方を学んだ人たちである。かれらは、餃子の調理法こそ変更したが、包み方については中国式を踏襲した。さほど必要性のないヒダが保存された。餃子は、戦後になって本格的の導入された食物である。それまでは、なじみのない食物であったため、その味だけでなくその形で、つまりヒダをともなった三日月形で餃子とインプットされた。小麦粉の皮で肉と野菜の餡を包む料理はシューマイ、ワンタン、肉まんなど少なくない。餃子に似たこれらの食物と餃子を区別するのに形は有力な情報である。もし、丸い形の餃子が出てきたら(丸い餃子も実際に存在する)、「これって餃子?」と思うだろう。餃子は、あのヒダのついた三日月型であれば、誰もが餃子と認識するわけで、ここに餃子のヒダの存在理由がある。「結局かざりなんです。見映えです」と言うのはほとんど正しい。
 
焼餃子であれば、ヒダは必須ではない。本場中国の餃子の味により近い宇都宮餃子だが、そこでも餃子のヒダは減少傾向にあるようだ。宇都宮餃子会の直営店舗である来らっせには、初期の餃子と現在の餃子が展示してある。見比べるとヒダが少なくなっていることが見て取れる。だから、ショージ君は、餃子のヒダを作ることに疲れてため息をついている中華料理店の主人に、「餃子のヒダを七つから五つにしてもいい。なんなら、ゼロにしたってかまわない」といってあげられる。彼の過重な負担をなくしてあげられる。ただ、「これは餃子なの?」とお客さんに聞かれることは覚悟しておく必要があることだけは付け加えたほうがいいかもしれない。

宇都宮餃子とライバルの軌跡(5)ライバルは別にいる 2

宇都宮餃子とライバルの軌跡(5)
ライバルは別にいる 2
 
宇都宮餃子の成功は、それまで誰も思いつかなかった「地域の食べ物による町おこし」が、可能であることを証明して見せた。宇都宮餃子で町おこしの可能性を見出したのは、宇都宮が家計調査のぎょうざの項目で全国一の購入額であることを発見した宇都宮市の若手職員だった。それに注目したのは、市の商業観光課長だった沼尾博行だった。沼尾は、市内の餃子店主に働きかけ、宇都宮餃子会の結成にこぎつけた。さらに、機を捉えて、テレビ番組で宇都宮餃子を取り上げてもらうことに成功した。宇都宮餃子の成功は、このテレビ番組、「おまかせ山田商会」から始まった。宇都宮餃子の成功の方程式、行政(その周辺者)と、その地域の特徴ある食べ物の提供者、そしてマスコミの関与で町おこしを図る手法は多くの地域で試みられることになる。
 
ところで、地域の特徴のある食べ物の多くは、戦後生まれであるか、戦前からあるが戦後に急成長したかである。戦前から存在していても、あまり一般的ではなく、戦後に急成長した料理の代表格は、ラーメン・餃子・お好み焼きであろう。これらに共通しているのは、主要な食材が小麦粉ということである。戦前の日本の食生活の中心は米だった。小麦粉食品はその補助的存在にすぎなかった。戦争の後遺症で、日本は深刻な食糧危機に陥ったが、これを救ったのは小麦だった。直接戦場にならなかったアメリカでは、当時小麦がダブついており、アメリカはこれを日本やヨーロッパに援助した。不足する米と比較的流通する小麦粉は、それまでの米中心の食生活を一変させるきっかけとなった。ラーメン・餃子・お好み焼きといった小麦粉料理が急速に普及していった。小麦粉料理の普及は、日本の食生活にもう一つの大転換をもたらした。肉食が一般的になったのだ。小麦粉料理の代表はパンだが、これに合う食材はなんといっても肉類である。
 
小麦粉と肉を使った料理が各地で創り出されていった。戦前からの郷土料理で最初から小麦粉を使用するものはもちろん、違う材料であったものでも小麦粉に置き換えられていく。戦前になかった料理も新たに考え出され地域に定着してきた。こうした食品の多くが今日B級グルメとして登場してきている。「B級ご当地グルメの祭典」と銘打つB-1グランプリの第6回大会(2011)の入賞料理には、そうした料理が並んでいる。
ゴールドグランプリ ひるぜん焼きそば
シルバーグランプリ 津山ホルモンうどん
ブロンズグランプリ 八戸せんべい汁
第4位       浪江焼麺
第5位       今治焼豚玉子飯
第6位       石巻茶色い焼きそば
第7位       勝浦タンタンメン
第8位       十和田バラ焼き
第9位       日生カキオコ
第10位      あかし玉子焼
 
ラーメン・餃子・お好み焼きは、B級グルメの先達者である。各地で独自の進化を遂げご当地名物料理として、旅行ガイド、グルメガイドに欠かせない存在になっている。宇都宮餃子は地域グルメによる町おこしが可能であることを証明した。ご当地餃子やラーメン、お好み焼きもそれぞれの特徴で、誘客を図っている。遅れてきたB級グルメも、続々その戦列に加わってきた。いまや宇都宮餃子のライバルは各地に輩出し、日々力をつけてきている。宇都宮餃子は、ここでも相対的な地盤低下を余儀なくされている。

宇都宮餃子とライバルの軌跡 (5)ライバルは別にいる 3 揺らぐ「安い」の優位性

宇都宮餃子とライバルの軌跡
 
(5)ライバルは別にいる  3 揺らぐ「安い」の優位性
 
宇都宮餃子が有名になったころ、その安さが目を引いた。餃子一人前が二百円台は、一般的なそれの半額程度、うまくて安いと評判になった。
 
しかし、宇都宮餃子は始めから安かったわけではない。1958年に宇都宮餃子の草分けである宇都宮みんみん(当時はみんみん)が開店しているが、当時の値段は50円だった。1960年の東京のラーメンは45円だった(週刊朝日「戦後値段年表」)ことを考えると、むしろ高価だったといってよい。1983年のみんみんの餃子は150円になっている。24年の間に3倍になったわけである。同じ年の東京のラーメンは355円、22年間で8倍近くになっている。この間に、餃子は高校生などによりファストフード的に食べられることで宇都宮に定着してきている。餃子の消費者の中心が、高校生であれば、その価格の上昇は抑制的にならざるを得ない。
 
だが、宇都宮の餃子がすべて低価格ではなかった。1991年の東京の餃子の値段は417円であるのにたいし、宇都宮は362円である。確かに宇都宮の方が安いにしても、それほどの差ではない。なぜなら、当時、宇都宮では低価格の餃子専門店の餃子と、全国の価格と同様のラーメン店などの餃子が共存していた。この年のみんみんの餃子は170円だった。双方の平均がその価格だったのだ。
 
宇都宮の餃子の値段が大きく動いたのは1996年からだった。東京のそれは上昇傾向だったのに、宇都宮では年々安くなり、1998年には、東京が462円だったのに宇都宮は232円とほぼ半額になってしまった。この年のみんみんは220円、餃子専門店の値段に近づいていることになる。なにが起こったのだろうか。
 
宇都宮餃子会が結成されたのは1993年。同じ年、あの「おまかせ山田商会」で宇都宮餃子がとりあげられ、一躍全国区になったのもこの年だった。そしてこの前後、宇都宮餃子ブームをあてこんで、多くの餃子店が開業する。これらの餃子店は、競争に勝つために先発組にあわせて値段設定をおこなった。こうして、低価格の餃子店が増え、その結果宇都宮全体の餃子の値段は下っていったのである。
 
宇都宮餃子は、当初のファストフード的な食べられ方から、外食へと変換を遂げてきたことはすでに述べた。外食としての宇都宮餃子にとっても、安い値段は武器になった。餃子2人前とご飯を食べて500円程度、「ワンコイン」という言葉が一般的になるより以前から、宇都宮餃子はそうだったのである。
 
だが、いまや、宇都宮餃子は安さでも多くのライバルと闘わなければならなくなっている。バブルの崩壊以後、あらゆる業界で価格破壊が進んだ。外食業界や、弁当などの中食業界も例外ではない。いまや、ワンコインどころか、それ以下で食事をとることが可能になっている。安さという武器は宇都宮餃子の独占でなくなったばかりか、逆転の状況すら生まれている。宇都宮餃子が享受してきた優位性は失われ、その前に多くのライバルが立ちふさがっている。
 
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(5)ライバルは別にいる 4 ライバルの多様性

(5)ライバルは別にいる
    4 ライバルの多様性
 
宇都宮餃子の発展の歴史は、また、そのライバル登場の歴史でもある。はじめは宇都宮餃子内での競争があった。競争があっても、いや、競争があればこそ宇都宮餃子は前進することができた。
 
先に述べたようにみんみんは、宇都宮のファーストフードとしての位置を築いた。正嗣がこれに追従し、後に宇都宮餃子の宿命のライバル視されることになった。両店は競争しつつおもに高校生をターゲットにファーストフードとしての営業を続け、ここで獲得した膨大な餃子消費者層を作り出すことに成功する。毎年、新入生が加わり、卒業生が地域に散らばる。市の中心部だけでなく、いたるところで餃子店が増えることを可能にした。
 
アメリカからのファーストフード店の襲来にたいしては、ファーストフード店から外食店へと転換、さらにテイクアウトを強化することで対応した。この結果、宇都宮餃子は宇都宮市内の隅々まで浸透し、餃子の消費をさらに拡大させた。1987年、家計調査に「ぎょうざ」の項目が新設されると宇都宮が全国一の購入額であることが発見される。そうなるための基礎は、すでに固められつつあったのである。
 
宇都宮餃子が一躍有名になるやいなや、続いて静岡や浜松をはじめとするご当地餃子にもスポットライトがあたりだす。宇都宮餃子は、ご当地餃子の盟主としての位置を固めつつも、彼らの挑戦を受け続けなければならなかった。そして、次にはいわゆるB級グルメの時代がやってきた。ここでいうB級は、もちろん2流の意味ではない。バブル期に高級食材がもてはやされ、値段さえ高ければ高級でうまいという風潮さえまかりとおった。高級でないもの、つまり安価なものは、それだけで馬鹿にされた。バブルがはじけると、これまでの反動で、安くてうまいものが注目される。それは、値段は安い(=B級)けれどもおいしい(=グルメ)食べ物として、B級グルメと名付けられた。戦後の食糧危機のなか、腹を満たすためには安くて量の多いものこそ食卓の主人公だった。極端に言えば、味は二の次だった。経済が発達し豊かさが増してくると、今度は、高くてもおいしいものが求められた。バブル崩壊以後は、厳しい経済状況の中、所得は落ち込み、高い食材に多くの金額を投じることができなくなる。しかし、一度グルメに目覚めた以上、味は二の次というわけにはいかない。安くてもうまいものが求められたのは当然だった。
 
外食産業でも、バブルの崩壊以降、価格競争は激しくなった。いまや「ワンコイン」は当たり前の常識と化した。安さを売り物にできる時代は去り、それを前提に競い合う時代になった。
 
宇都宮餃子のA店が、その餃子を消費者に選んでもらおうとすると、数ある宇都宮餃子の他店との競争に打ち勝たなければならない。だが、その前に、宇都宮餃子を選んでもらう必要がある。ここでは、全国のご当地餃子との競争に勝たなければならない。宇都宮餃子の各店にとって、他店はライバルだが、まず宇都宮餃子を選んでもらうとなれば、パートナーとして協力せざるを得ない。ライバルでありパートナーであるという関係は、全国のご当地餃子という枠でも、B級グルメという枠でも同じことがいえる。その意味で、対立が続いた浜松餃子との関係改善が行われたことは喜ばしい。競争と協力で、ご当地餃子という食文化をさらにアッピールしていく環境が整ったのだから。B級グルメという枠では、宇都宮餃子会は孤高の対場をとり続けてきた。これから売り出そうとしている者とすでに位置を獲得している者とが、同じ土俵の中で競い合うわけにいかなかったことは仕方ない。数あるB級グルメとの競争は続くとして、協力関係を模索する必要もあるのではなかろうか。「安くてうまい」B級グルメも、安さという武器を独占できる状況ではなくなっている。B級グルメが、競争に勝ち抜くためのパートナーとして、宇都宮餃子もその一端を担う時期がすでに来ているのではないだろうか。
 
宇都宮餃子をとりまくライバルとパートナー関係は、いまや重層的になっている。この状況をどう乗り切るのか、宇都宮餃子も戦略的対応が必要になっている。

宇都宮餃子の風景 1 「宮茶房」と「宮の橋」の風景

宇都宮餃子の風景
 
1 「宮茶房」と「宮の橋」の風景
 
宇都宮で、最初に餃子をメニューにのせていたとされるのが宮茶房である。JR宇都宮駅前からまっすぐ西に延びる大通りがある。宇都宮駅と市街地の間には田川が流れ、そこに「宮の橋」がかかっている。駅から市街地に向かって歩くとすぐ宮の橋だが、その手前の右側に宮茶房があったらしい。現在は、コンビニとチサンホテルが建っているあたりだろうか。当時を窺わせるものは何もない。だが、駅の周辺には、多くの餃子店がひしめいている。1軒の喫茶店から始まった宇都宮の餃子がここにある。
 
 
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宮茶房は、名前からして喫茶店のようだ。だが、なぜ喫茶店が宇都宮における餃子の第一号なのか。宮茶房は、1951年(昭和26年)から55年ぐらいまで営業していたとされるが、定かではない。開店の時期はもっと早いのかもしれない。喫茶店と餃子といういささか不釣り合いな組み合わせがそう疑わせる。日本で餃子が普通に食べられるようになったのは戦後のことである。敗戦により、多くの軍人・民間人が復員あるいは引揚者として戻ってきた。彼らの多くは餃子の故郷である中国からの帰還であり、中国で餃子を食べ、あるいは餃子を作ることを覚えてきた人たちである。
 
うどんの本場、香川県では喫茶店のメニューに讃岐うどんが載っている。それほど、うどんが生活に浸透しているわけだ。戦後すぐの宇都宮で餃子がそれほど普及していたはずがない。宮茶房という喫茶店が、宇都宮における最初のメニューとされ、それ以前に餃子が販売されていたことは確認されていない。あるいは、宮茶房以前にもあったのかもしれないが、いずれにしてもそれほど定着していたとは思われない。いち早く餃子を登場させたのは東京であった。その主役は中華料理の料理人が担った。餃子が中華料理の中の一品であれば当然だったろう。ラーメン店であれば不思議でもなんでもない。喫茶店ではいかにもミスマッチである。
 
食糧の配給制は戦中から続いていた。しかも欠配が普通のことだった。食糧事情は悪化し、政府は、配給確保のための食糧調達に躍起になった。1947年に、全国の飲食店(料理店、飲食店、カフェー、飲食露店、待合、芝居茶屋等設備を設け客に飲食物を供し又は供する慣行のある営業)33万軒の営業が禁止されたが、これも「主要食糧等のやみ取引を防止しその有効な活用を促進するため」だった。例外的に営業が許された業種もある。外食券食堂、宿屋、喫茶店などである。
 
配給のひとつの形態に「外食券」というものがあった。配給の制度として米穀通帳が発行されていた。これが無いと配給が受けられない。この通帳を持っていくと、配給の代わりに1日3枚あての外食券が渡された。それを外食券食堂に持っていけば外食が可能というもの。宿屋に泊る際も同じこと、外食券がないと食事ができなかった。外食せざるを得ない人々が存在する以上、外食券とそれを使用できる場所が必要なので、営業が許可されている。喫茶店は、これとは異なり、「酒類以外の飲物、果物又は指定主食を原材料としない菓子類を提供する営業」として営業が許された。こうして営業が禁止された飲食店が再び営業が許されるのは、49年になってからである。
 
47年から49年にかけて、飲食店の営業は基本的に禁止されていた。しかし、喫茶店は食事を提供しないということで、営業が許可されていた。このため、飲食店の一部には、喫茶店として店を構え、表向きには食事を提供しないが、裏ではヤミの食材を使って提供することが普通に行われた。宮茶房がこの頃営業していたとすれば、こっそりと餃子を提供していてもおかしくない。喫茶店と餃子という変な取り合わせが、じつは当然のことになる。飲食店の営業が再開されれば、裏メニューであった餃子を表に出せる。宇都宮で餃子を初めてメニューにのせたのが喫茶店であるという事情の背景には、戦後の食糧事情と、飲食店の営業禁止があるのではないか、筆者は推測している。

「蘭鈴」と「大銀杏」の風景(宇都宮餃子の風景)

「蘭鈴」と「大銀杏」の風景
 
宇都宮市の名木と言われる銀杏がある。樹齢400年、33mの高さと6.4mの巨木が立っているところは、かつての宇都宮城の中である。いまは大谷石の石垣に囲まれている
が、元は南北にのびていた土塁上に植えられていた。西側(写真の後ろ側)は百堀、東側に三の丸広場があった。江戸時代の初期、宇都宮城主となった本多正純が、本格的に市街と城廓の整備を行い、今日の宇都宮の基本的な形を作り上げた。大銀杏はその頃から宇都宮の移り変わりを見てきたことになる。
 
大銀杏は、その後二度にわたって災厄に見舞われた。一度目は、明治維新の際の戊辰戦争。宇都宮城は、新選組副長だった土方歳三に率いられる旧幕軍Image may be NSFW.
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の一部によって落城の憂き目を見た(1868年・慶応4年)。宇都宮城は、一部を残して焼失、城下も8割以上が焼けである野原となった。城廓一帯は、その後、民間に払い下げられ、城門などの痕跡は喪われていったが、大銀杏はかろうじて残ることができた。二度目は第二次世界大戦の終戦間際(1945年・昭和20年)、B29、133機による空襲。第14師団の膝元であり、また、軍需工場が多数置かれていたためで、罹災人口47976人、死者521人を数えた。市街地の大半が焼かれ、大銀杏も「真っ黒に焼けるほどの被害を受け」た(写真・大銀杏のプレート)。だが、「翌年には、新芽を吹き見事に再生」、宇都宮復興のシンボル的な散在になり、今も健在である。
 
宇都宮復興のシンボルである大銀杏は、宇都宮餃子の出発の地にもなる。1953年(昭和28年)、この大銀杏の下に、一軒の餃子屋台が店開きしImage may be NSFW.
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た。「蘭鈴」である。蘭鈴こそ、宇都宮の餃子の草分けとなる餃子店である。
 
宇都宮の餃子のスタートは、本来は喫茶店である「宮茶房」であった。戦中・戦後の食糧危機と、飲食店の営業禁止が、喫茶店での餃子にならざるを得なかった。食糧事情は徐々に回復し、1949年(昭和24年)には、飲食店の開店が可能になった。ようやく、宇都宮に餃子店が開店するための障害が一つ取り除かれた。だが、開店が可能になっても、おいそれと店舗を構えるわけにはいかなかった。あの大空襲で市街の大半が焼け、9000世帯を超える市民が家を失っている。当時の宇都宮では店舗はおろか、住宅すら不足している。しかも、蘭鈴の経営者である鈴木フクは、当時、三十台半ばで、息子と二人で親類に身を寄せていたという。戦争で夫を失ったのだろうか。いつまでも親類に厄介になっているわけにもいかず、息子と二人が食べていくために「自立した商売がしたい」と考えていたと言う。こうした時、知人の勧めがあり、餃子店を開くことにした。蘭鈴が屋台から出発するのは、自然の流れであろう、
 
蘭鈴のメニューは、知人に勧められた餃子を提供することにした。鈴木は、餃子の作り方を知らなかった。開業を勧めた知人が、それも教えてくれるというので、開業に踏み切った。この知人は、旧満州の生まれで、戦後に宇都宮にやってきた人だという。だが、教えてもらった餃子は「豚肉と白菜中心」の中国北部の餃子ではなかった。
蘭鈴の餃子は、ひき肉、ニラ、玉ねぎ、貝柱、キクラゲ、いり卵などが入っていたとされる。ときには、エビ、ナマコを入れたこともあり、こうした食材の仕入れに東京の築地まで出かけていたと証言されている。食糧不足は、依然として続いていたのであろうが、それでも一時よりは改善された様子が窺える。蘭鈴の餃子の豊富な具材は、中国南部の、飲茶系統の餃子に思える。

中国北部で、日本人が覚えてきた「餃子」は家庭料理で、料理店で供されるものではなかった。習い覚えた家庭料理の餃子で商売することに踏み切るのは飛躍を必要とする。「餃子を売る」という発想と餃子の中味を考慮すると、この知人は中国料理の料理人だった可能性が高い。多少は好転してきた食糧事情の中で、餃子での商売を考えるのは、それまでも餃子をメニューに載せてきた中国料理店の関係者がまず先陣を勤めるのは、当然のなりゆきだろう。鈴木フクに、餃子を教えたのは、どうも一般の引揚者ではなかったように思えるのである。

宇都宮駅と宇都宮餃子館の風景(宇都宮餃子の風景)

宇都宮駅と宇都宮餃子館の風景(宇都宮餃子の風景)
 
宇都宮の駅の改札口を出ると、餃子の文字がすぐに目に飛び込んでくる。餃子店の案内板。餃子だけでなく、餃子をイメージしたお菓子やグッズを並べた土産店。そして、餃子の複合施設である「餃子小町」。駅の階段を降り、西口の広場に向かい左側(南側)を見ると、餃子店の看板がやたら目に付く。宇都宮を訪れた人は、この風景に「餃子の街」を実感するという。だが、宇都宮駅前に、餃子店が密集するという風景が成立するのは、それほど昔ではない。宇都宮餃子が全国に知られるようになり、餃子を目当てに観光客が押し寄せるようになったのは、1993年(平成5年)からである。これ以前に、宇都宮駅の近辺で営業していた餃子店は、東口の「イキイキ」だけだった。イキイキの開業は1986年、バラエティに富んだ餃子で人気を集め、宇都宮餃子会の結成と宇都宮餃子の売り出しにも一役買った。表玄関である西口には餃子店はなく、そこから一番近い「正嗣」と「みんみん」まで、約1キロメートル、歩けば15分の距離だった。
 
宇都宮の駅と市中心部はもともとかなり離れている。鉄道が開通し、駅が設置されるとき、宇都宮のはずれにそれは追いやられたからだ。当時は、駅前の田川に架かる宮の橋付近が宇都宮の宿はずれで、駅のある「川向町」は、城下からみて川の向こうにあったためにこう呼ばれた。宮の橋を渡ると、城下を守るための寺が多く置かれていた。有名になる以前、宇都宮の餃子店は地域に密着して営業していた。駅周辺に餃子店が立地する条件がなかったのである。
 
JR宇都宮駅は宇都宮の表玄関だ。多くの観光客、ビジネス客が、宇都宮駅に降り立つ。宇都宮餃子が知名度を得れば、餃子を食べたい、お土産に買いたいという人が増えてくる。従来からの餃子店は、しかし、なかなか駅前進出できない。店舗を移転するにせよ、新規にオープンするにせよ、相当な費用とリスクを背負わなければならない。それなりに、繁盛している以上、選択の余地は少ない。
 
宇都宮餃子が有名になるにつれて、宇都宮餃子にも新規参入者が数多く出てきた。新規参入者にとって、地域にひしめき一定の消費者を獲得している多くの餃子店と対抗するのは容易ではない。現に、いくつもの餃子店が開店を試みては、その厚い壁に阻まれて閉店を余儀なくされていた。それにひきかえ、駅前は餃子店空白地域である。新たなニーズもある。駅前こそ、後発組の出店すべき場所だという戦略を立てた餃子店があった。「宇都宮餃子館」である。
 
ホテル・ウイークリーマンション・自動車教習所などを展開していたエストグループが、1995年(平成7年)に「宇都宮餃子館」宇都宮駅西店と宇都宮駅東店をオープンさせた。駅東店は駅に近かったものの、宇都宮駅東口そのものが裏口でしかなかった。乗降客の多い西口側にある駅西店は、駅からかなり遠かった。そこで、1999年(平成11年)になって、「西口駅前1号店・2号店」をオープンさせる。今度は、完全に駅前店舗だった。宇都宮餃子館は、その後も駅周辺に店舗を展開する。その後餃天堂なども加わり、これらの新興グループによってこの風景が作り出された。
 
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宇都宮駅東口に新旧餃子店が並ぶ風景

宇都宮駅東口に新旧餃子店が並ぶ風景
 
宇都宮餃子が、有名に成りはじめたころ、宇都宮駅近くに、餃子店はなかった。その空白を埋めたのは、宇都宮餃子がブームになってから新規に参入してきた新興店である。
古くからの餃子店の進出はすこし遅れ、2000年になって、ようやく駅ビル・パセオ内に「みんみん」が出店した。さらに2005年になって、駅コンコース内に複合店舗「餃子小町」がオープンしたが、これには、昭和30年代に開店し、宇都宮餃子の基礎をつくってきた老舗の餃子店は出店していない。これらの餃子店の多くは、それぞれのテリトリーで堅実に営業を続けており、新たな場所に進出するという冒険の必要性がなかった。また、これらの餃子店は、家族による経営で成り立っていて、そうするための余力も持ち合わせていない。そのなかで、みんみんは餃子の品質管理にこだわり、すべての餃子を工場で生産し、市内および近郊の店舗に供給する体制を確立していた。事実上、みんみんしか駅前に進出できる可能性はなかった。
 
一方、東口では、再開発の計画が進んでいた。平成16年に清水建設を中心とする「グループ七七八」を、事業化計画の最優先交渉者に選定した。ところが、平成20年のリーマンショックの影響を受け、グループ七七八は、21年に、事業化計画を提出することなく撤退、再開発計画は宙に浮いた。駅前を空き地のまま放置するわけにもいかず、新たな計画が策定されるまで暫定的な活用がはかられ、事業者が募集される。まず手をあげたのがさくら食品。さくら食品は、エストグループの破産によって、その餃子部門である宇都宮餃子館を引き継いでいた。続いて、宇都宮みんみんも名乗りをあげた。みんみんは、西口で営業していたパセオ店を、パセオのリニューアルを機会に、移転させることにした。こうして、平成23年から、東口に新旧を代表する餃子店が並ぶ風景ができあがった。宇都宮餃子館が、さまざまな石像などをあしらい、にぎやかな店構えであるのに対し、宇都宮みんみんは、みんみんカラーの落ち着いた店づくりと、対照的なたたずまいをみせている。
 
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しかし、この場所は、平成26年3月までと使用期限が決まっており、一応は退去しなければならないことになっている。この風景が見られるのはあと僅かな期間のはずだが、実際は、具体的な事業計画が決まる見通しが立っておらず、期限の延長もあり得る。また、新たな事業計画に、宇都宮餃子の店舗も組み入れられる公算も高い。新旧の宇都宮餃子店が並立する風景は、これからも続くかもしれない。

セブンイレブンに餃子W弁当が並ぶ風景(宇都宮餃子の風景5)

セブンイレブンに餃子W弁当が並ぶ風景(宇都宮餃子の風景5)
 
餃子と弁当、これをミスマッチと感じる人は多いはずだ。餃子は、焼き立てこそおいしい。冷めると皮が固くなる、匂いがきつくなる。温かけれれば温かいで、持ち歩こうものなら周囲に匂いが発散する。餃子だということが一発でばれる。その、やっかいな餃子弁当を販売しようという勇気ある?コンビニが出現した。セブン-イレブンである。
 
セブン-イレブンは、このほど宇都宮餃子会の監修の下、「自家製餃子W弁当」を発Image may be NSFW.
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売する。宇都宮餃子の弁当版を追求した「もちもちとした食感の皮」から「大きめにカットした野菜」で「ジューシーであっさりした中具」まで、すべてをセブン
-イレブンの自工場で作っているというご自慢の一品だという。餃子のプロである宇都宮餃子会の理事たちが、「専門店とは違うが」と言いつつも、「これ以上の弁当はない」と太鼓判をおしたほどである。「焼き立てでなくてもおいしい」「自家製餃子W弁当」は、11月2日から宇都宮市内限定で発売される。3日~4日は、宇都宮餃子祭りである。ひと皿100円で食べられる宇都宮餃子が大集結する。この際だから、480円の弁当と食べ比べてみるのも一興だろう。
 
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ところで、焼餃子12個とライスからなるこの弁当、「自家製餃子W弁当」とネーミングされている。12個の餃子はちょうど2人前、これにご飯を組み合わせたものを、宇都宮ではW(ダブル)ライスと称する。名前でも宇都宮餃子にこだわっているわけだ。
 
「ダブルライス」は、いまでは宇都宮餃子を食べに行くと常識のように使用されているが、実はある餃子店の符牒だった。宇都宮では注文の仕方まで独自の餃子文化があるとマスコミで紹介され、広まっていった。餃子はラーメンのサイドメニューとして存在するとしてしか意識されていないことが当たり前の中、宇都宮では「餃子が主役」であることを象徴しているようにとらえられた。初めは「ダブルライスと注文するとライスが二つくるのでは?」と戸惑った人もいたようだが、いまでは、宇都宮中の餃子店で「ダブルライス」と注文する声が聞こえるようになっている。
 
「ダブルライス」という言葉を発明?したのは、言わずと知れた宇都宮みんみん。同店では餃子1人前はシングル、2人前、3人前はダブル、トリプルである。ダブルなら、餃子は2人前が一皿盛りで出てくる。2人前でも別皿の場合、「焼二つ」と変わる。「焼餃子2人前とライス」と注文するのは野暮で、「ダブルライス」と頼むのが常連の証で粋とされた。
 
みんみんでこの符牒が生まれたのは、みんみんが餃子専門店だったからである。餃子専門店だから、メニューは、餃子3種類とライスだけ、単純な分符牒化しやすかった。加えて、その忙しさである。例えばランチタイム、短時間にスピーディーに進めなければ、薄利多売の餃子店はやっていけなかった。一時に殺到する注文をさばくため、独自の符牒を使いだしたのだ。
 
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お客が来たとする。○○番のテーブルに座った3名の注文はこうである。
 A 焼餃子2人前と水餃子1人前とライス
 B 焼餃子1人前と揚餃子1人前とライス
C 焼餃子1人前と、水餃子1人前と半ライス
注文を確認した店員は、「○○番さん、ダブル・シングル、ヤキ・アゲ、スイふたつ、ライスふたつと半ライス」と、それを大声で通す。すると、レジに控えている店員はすかさず読み上げをそのまま記号化して「WA(AB)C」とメモする。調理担当は、4人前を焼きはじめ、1人前をフライヤーに、2人前をお湯がたっぷり沸騰している寸胴(ナベ)に投入する。出来上がり間際に、「ライスと半ライス」とご飯担当に指示し、出来上がった餃子をカウンターに並べ、「ダブル・シングル、ヤキ・アゲ、○○番さん」と告げると、注文を聞いた店員がライスと餃子を○○番テーブルに運ぶのである。実にスムーズに素早く注文品が並ぶ。
 
この光景をみた、お客さんはビックリしたらしい。宇都宮のニンゲンにとっては当たり前だが、観光客には新鮮な光景で、「さすがは餃子の街」と感心もし、やがて「ヤキスイライスください」などと注文する人も増えた。やがて、みんみん以外の店でも普通に聞かれるようになり、とうとうセブンイレブンでも聞かれるようになったのだ。
 
宇都宮餃子の風景を歩く
風景にも歴史がある。そこには、その風景を作ってきた時の流れが積み重なっている。何気ない風景でも、その過去を探れば、歴史の1ページがよみがえる。風景を歩くことは、歴史を歩くことに繋がる。宇都宮餃子の風景を歩けば、宇都宮餃子の歴史が見えてくることだろう
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