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Channel: 宇都宮餃子連
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餃子の街の駅弁当 3 餃子駅弁の実現へ

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餃子の街の駅弁当  3 餃子駅弁の実現へ
 
全国に数ある駅弁の内でも、誰でも知っている駅弁が横浜の「シウマイ弁当」だ。今では、1日に17000個を売り上げるという「シウマイ弁当」が最初に登場したのは1954年(昭和29年)だった。当初は、横浜駅構内で売店を開いていた崎陽軒が、「シウマイ」を売り出したのが、1928年(昭和3年)だった。小田原のかまぼこ、静岡のわさび漬けのような名物を横浜にも作ろうと考え、目を付けたのが横浜南京街(中華街)の焼売(シューマイ)。だが、焼売は、熱いうちに食べるのが美味しく、冷めてしまっては、その美味しさも半減してしまう。駅構内で売るには、冷めても美味しいシューマイの開発が必要だった。1年の研究・開発を経て発売にこぎつけ、横浜名物の座を不動のものにしていく。なお、崎陽軒では「シューマイ」と言わず、「シウマイ」と表記しているが、これは、当時の社長である野並茂吉が「シウマイ」と言い習わしていたことに由来するそうだ。
 
餃子と焼売はどちらも、小麦粉で作った皮で肉や野菜の餡を包む兄弟ともいうべき料理である。焼売が、戦後早くに駅弁になったのに、餃子のそれはかなり遅れて登場する。「シウマイ弁当」の場合は、冷めても美味しい焼売の開発に苦労したという。餃子弁当の場合は、冷めても美味しい餃子というほかに、もう一つ大きな障害がある。匂いである。餃子の材料であるニンニクとニラの匂いが、車内にばら撒かれてはたいへんだ。まわりの乗客も迷惑だが、食べている本人も具合が悪い。餃子を駅弁に入れることなれば、ニンニクとニラの匂いを消すという困難な工夫しなければならない。どうしても、餃子弁当を作らなければならない事情が無い限り、誰もそんなことに挑戦しないだろう。その特別な事情というものが、宇都宮に起きた。平成5年のことである。
 
平成5年(19937月、宇都宮餃子会が発足し、宇都宮を餃子の街として売り出す活動が本格化した。10月からは、全国に、宇都宮が餃子の街であることを、全国に知らしめたTV番組「おまかせ!山田商会」の放送が始まった。7回に渡る番組の中では、餃子ソング、餃子像、餃子キャラクターの作成などの企画コーナーがあった。宇都宮駅が駅弁発祥の地であることにちなみ、餃子弁当も作ろうということになったのである。担当者になったのが餃子会の専務理事だった平塚康(幸楽)だった。平塚が、餃子弁当に入れる餃子の開発に苦労するというのがコンセプトだった。餃子の匂いを消すために、いろいろな香辛料を試したり、その道の人から教示を受けたりしながら試作を続け、ようやく完成にこぎつける。番組は、その過程を追うという趣向だ。
 
だが、実際は、そんなに苦労する必要はなかった。宇都宮餃子の特徴の一つは、ニンニク臭くないということだ。もはや、常識になったようだが、餃子の故郷である中国では、餃子にニンニクを入れない。ニンニク入りの餃子は、日本発祥なのだ。中国では、ニンニクをたれに入れたり、齧りながら餃子を食べる習慣がある。日本では、戦後の餃子が一般化するのだが、当時は極端な食糧不足だった。餃子に入れる豚肉も品質が悪く、その臭みを消すために、中国では入れないにんにくをあえて入れたのである。入れてみれば、味も良くなり、スタミナがつく感じもあり、日本の餃子は、ニンニク入りが当たり前になった。宇都宮では事情が異なった。宇都宮餃子の第1号である「みんみん」が開店した昭和33年(1958)ごろには、食糧危機も緩和され、餃子の材料も豊富になっていた。豚肉の品質も良くなっており、ニンニクを入れる必要もなくなり、店主の鹿妻三子が北京で覚えた本場の餃子を再現できた。これに続いた宇都宮の餃子店は、ニンニクを使用しないか、使用してもその匂いを抑えるレシピで餃子を作った。宇都宮餃子は、店で食べるだけでなく持ち帰りの需要も多かったのだが、それは、「冷めても美味しい」からという側面もあったのである。駅弁に餃子を入れるとすれば、冷めても美味しく匂いも少ない宇都宮餃子こそふさわしい。餃子駅弁第1号が、宇都宮で誕生するのは当然だった。

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